硬式ペナス〜林由美香 監督・カンパニー松尾

 九〇年代のアダルトビデオにおける最大の功績は、誰が何と言おうとカンパニー松尾平野勝之というとてつもない才能を輩出したことである。そんな二人に対し林由美香というひとりのAV女優が、まるで創造の女神の如く降臨したのは果たして偶然だったのだろうか?
 カンパニー松尾は「ハメ撮り」と呼ばれる映像スタイルを確立したとよく言われる。ハメ撮りとは決して単に「セックスしながらカメラを廻す」ことではない。また、観る者を「あたかもセックスしているような気持ちにさせる」ヴァーチャルな映像のことでも、ない。それは対象たる女性に、他者に、あるいは風景に対しても、自己の意思をカメラを通してぶつけるという方法論だ。つまり、一見他者を撮っているように見えて、その実自我の移ろいを写し取っているのである。
 セックスを撮るということに関してのみ語ってみるならば、松尾の映像は彼のペニスが挿入され乱れ狂っている女の姿を撮っているように一見して思えるものの、実は彼自身の興奮を撮ってるのだ。だから我々は彼の撮るものに興奮を覚える、ゆえに松尾の作品は常にAVとして一級品なのだ。そう考えていくと、初期にあった「松尾の作品には彼の心情を吐露するセンチメンタルなテロップが多すぎる」という批判が如何に的外れであったか判るだろう。松尾が撮りたかったのは女ではなく、女に相対する時の自分の気持ちだったのだ。そしてその手法は、平野勝之が自主映画時代から貫いて来た、一人称映像、そしてボストダイレクトシネマという方法論と不思議なほど良く似ていた。
 それでは何故、松尾はそのような方法論にたどり着いたのだろうか? それは、彼が誰よりも「AVの中でセックスする理由」についてこだわったからだ。カンパニー松尾は二十歳そこそこで当時まだ新興メーカーであったV&Rプランニングに入社、社長である安達かおるの助監督を長く務めた。初期V&Rにはよく言われるように「特殊男優」と呼ばれるAVに応募しない限り一生セックス出来ないような男達が集まり、同時に裸になって人前でセックスを見せない限りはとてもビデオには出演出来ないような最下層の「企画女優」と言われる女達が集まっていた。「単体女優なんてとても撮らせて貰えなかった」とは当時を振り返った松尾の弁だが、特殊男優達の息苦しいほどのセックスへの欲望の裏側では、例えば飯島愛に代表される単体スター女優達が気の無い疑似本番とゴム付きフェラで大ヒットを飛ばしていた現実があった。まだ若かった松尾青年が、そこに恐ろしいほど白々しい欺瞞性を感じ取っていたのは想像に難くない。
 1988年、カンパニー松尾は『あぶない放課後』というシリーズ企画を手がけることによって監督デビューする。これは学園を舞台にした少年の淡い恋心とセックスへの妄想をテーマにしたドラマ物だが、正直あまり成功したとは言い難い。この頃松尾は当時秋元ともみ作品等を手がけていた宇宙企画のさいとうまこと監督の強い影響を受けていたようだが、残念ながら彼にはさいとうのように少女に対する憧れや淡い性欲というものを一般化して描く能力がなかった。いや、一般化するにはあまりに白々しい欺瞞性に、疑問を抱いていたのかもしれない。そして、そんな松尾の前に現れたのが林由美香だった。
 松尾はシリーズ6作目『あぶない放課後6』で当時他社ではすでにAVアイドルとして人気が確立していた林由美香を起用する。V&Rもその頃になるとやっとのことで弱小メーカーと呼ばれることから脱しつつあったのだ。そしてその約2ヶ月後、彼は由美香にもう一度逢いたいという衝動だけで次回作を企画する。それが本作『硬式ペナス』である。しかしコレ、今観るとそうとう奇妙な作品である。松尾はインタビューと称して由美香に「何故君はAVに出るんだ。君みたいなイイ娘なら普通の職業だって出来るはずだ」とほとんど絡んでいるような発言をしているし、平本一穂他男優と由美香のセックスも非常に唐突で必然性が極端に薄い。おそらくそれは松尾なりに、アイドル林由美香の存在を単体作品としてユーザーに提供しようとしたのだろう。しかし前述したように、カンパニー松尾にはさいとうまことのように少女像を美しく作り上げ一般化する能力と資質が大きく欠けていた。だが、松尾は編集段階に来て突然、自分が林由美香に猛烈に恋をしている現実に気づく。つまりそこに来て初めて、彼は由美香のセックスを撮る理由に気づくのだ。本作は以下のような実に美しいテロップで始まる。
《初めて会った時、君は話の途中で席を立ち、髪形をかえて戻って来た。(中略)かわいくて、素直で、不器用で、楽しかった。たとえ君に彼氏がいたってかまうもんか、僕は、アイツにはゼッタイ出来ない告白の仕方を知ってるんだ。今、見せてあげるよ。》
 これが、カンパニー松尾林由美香という名の女神が降臨した瞬間であった。