AV黄金列伝・まえがき〜僕達は何故、あれほどたやすく信じたのだろう?

 時々、懐かしく想い出すことがある。
 今住んでいる武蔵野の田舎に引っ越して間もない頃、駅からアパートまで歩いて30分近くかかる一本道のちょうど中程に、小さな個人経営のレンタルビデオ店があった。一般映画とTVドラマシリーズ等のスペースが約20畳ほどといったところだろうか。それでも最新のハリウッド映画はもちろん、黒澤、小津といった過去の名作邦画もかなりの品揃えで、あった。ATG時代の大島渚も、そこで何本か再見した記憶がある。倉本聰脚本による70年代のTVドラマ『前略おふくろ様』を、シリーズすべで観直したのもその店があったからだし、今ではもう観るのは難しいかもしれない、松本人志の『頭頭〈とうず〉』もそこで借りた。デヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』がいつも貸し出し中で、続きが借りられずやきもきしたのも良い想い出だ。
 そして──、
 お馴染みのあの〈暖簾〉の向こう側のスペース、それが畳10畳ぶんくらいだったろうか? 新作の棚があり、大雑把に分けられた人気女優のコーナーがあり、その他はメーカー別の棚が作られていた。僕は20代の後半を殺人的に忙しいAV監督として過ごした果てに、半ば隠遁生活をするようにこの田舎町に引っ越した。そしてポツリポツリとAVレビューなどを書き始めた頃だった。仕事とは関係無く、代々木忠監督の『目かくしFUCK』、『性感Xテクニック』シリーズ等を1本、また1本と借りていった。監督時代、他人の作品を観るのが嫌だった。くだらないものだと腹が立ち、出来の良いものには嫉妬した。だから代々木監督による一連の名作を、その頃になってやっと冷静に観られるようになったのだ。
 棚の一番下にはアートビデオやシネマジックの古いSM作品があって、それは懐かしい女優や、日比野達郎、速水健二といったAV監督時代に一緒に仕事をした男優達の、元気な姿が観たくて借りた。奥の棚に何やら黒っぽいパッケージの並ぶ一帯があり、それがヘンリー塚本監督によるFAプロの作品群だとやがて判った。そして、怪しげな中にも何処かお洒落な雰囲気も漂うパッケージの一帯がV&Rプランニング。安達かおるの『ジーザス栗と栗鼠スーパースター』のシリーズ、バクシーシ山下の『女犯』、カンパニー松尾による初期の『私を女優にしてください』がすべて揃っていた。ただ、僕が松尾や山下、そしてヘンリー監督に実際に会うのはそれからまだ1年程の時間が必要だった。

 その店は閉店が午前2時半。中央線の最終電車が駅に着いてから約40分程という時刻だ。深夜0時を過ぎると一般映画のコーナーにはすっかり人気が無くなり、その代わり〈暖簾〉の向こう側には急に賑やかになる。とは言えもちろん、誰一人会話は交わさない。20代後半から30代、ほとんどがスーツ姿のサラリーマン風。彼らは1本1本VHSのパッケージを手に取り──そう、あの頃はDVDなんて無かった──裏表を丁寧に見てはまた棚に戻し、ある者はずっとしゃがみ込んだまま、80年代の古いAVを探し続けていた。
 そんな物言わぬ友人達の姿を見た時、何編か書き散らかしたまま放り出しそのままになっていたAV男優、AV女優へのロング・インタビューをまとめてみようと思った。ただしその本『アダルトビデオジェネレーション』が一冊になるのは、そこからさらに6、7年の月日がかかるのだが──。

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 25才の時、アダルト系ヌード・グラビア誌の編集長になった。1984年、アダルトビデオの創世記である。インタビューや現場取材を通して、同世代のAV監督達に出会った。小路谷秀樹、高槻彰、ジャッキー、細山智明、等々。誰もが、若く自由な魂だった。その中の一人、80年代を代表する鬼才・伊勢鱗太朗がプロデューサーを買って出てくれて、僕は編集者と二足のわらじながらも、初めてAV作品を監督した。そして2年後、やはり同誌のインタビューで知り合った豊田薫の勧めで、彼の所属していた芳友舎(現h.m.p)の専属ディレクターとなり、本格的にAVを撮るようになった。
 中川えり子、斉藤唯、東清美、前原祐子、大滝かつ美、村上麗奈、葉山みどり、仲村梨紗、森村あすか、樹ますみ、山本なつき、藤巻ゆかり、杉森久美子、坂口蘭子、小泉朝子、栗原早記──アイドルから淫乱派と呼ばれる女の子達まで、何人ものAV女優と、ライヴな時間を共有した。
 夢のように美しく充実した日々であったが、同時に編集者上がりで助監督経験もない身には、毎回の撮影が重く苦しいプレッシャーの繰り返しでもあった。それに、折りからのバブル景気が拍車をかけた。メーカーは倍々ゲームで売上げを伸ばす。VHSテープはまるで札束を刷るように売れていき、女優のギャラはたちの悪いジョークの如く高騰した。作品を出せばそのぶんだけ売れる。故に監督は会社から撮影をひたすら組み、リリース本数を増やすよう要求された。そんな中で、僕はAV監督をドロップアウトする。年間専属契約を交わし、ギャラの他に契約金も貰ってたので他の仕事をすることもままならず、忙しく使う暇もく貯まる一方だった銀行口座の金を掴み、アメリカへ渡り約半年放浪した。1989年の夏。連続幼女殺害事件の容疑者、宮崎勤が逮捕されたニュースを、僕はニューヨークの安ホテルで知った。

 今年2010年、本書と同じイースト・プレス文庫ぎんが堂のシリーズ『AV黄金時代〜5000人抱いた伝説男優の告白』(太賀麻郎と共著)を出版した際、AVライターとしては先輩で、『AV時代〜村西とおるとその時代』『新・AV時代 』等の著書もある作家の本橋信宏さんから取材を受けた。
「あの時、東良くんは何故AV監督を辞めたの?」
 本橋さんからそう訊かれた時、我ながら青臭くて恥ずかしいなと思いつつこう答えた。
「僕はエロ本やAVに、大げさじゃなく青春を賭けてた。それがバブルの時代が来て、大人の金儲けの道具になっていくことに、心の底からウンザリした」と。
 本橋さんは驚いたような、少し呆れたような顔をした。そして出来上がったインタビュー原稿に、こう書かれていた。
〈商業主義を嫌悪し、創作活動にあたる人間など、70年代フォークシンガーか戦前の純文学作家くらいしかいないと思っていたのだが──〉綜合図書『特選小説』10年9月号「風俗TOP履歴書」。
 しかし、本橋さんも判っておられるはずだ。彼もまた、ある時期AVに自らの何かを賭け、村西とおる監督と共に、後に押し寄せたバブルの波に青春を翻弄された者の一人だからだ。

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〈俺達は現実を必要以上に現実的であると考えすぎた。リンゴを搾ればジュースになると、何故あれほどたやすく信じたのだろう。あるいは雲が出来たかもしれないのに──〉
 これは先に書いた、僕が20代半ばに編集長を務めていた雑誌『ボディプレス』(白夜書房)の最終号に、僕をAV監督に仕立て上げてくれた恩人・伊勢鱗太朗が寄せてくれた言葉だ。
 我々は何故あそこまで純粋にそして愚直に、アダルトビデオというものを信じたのだろう? けれどそこには、やはり人生のある時期を賭けるにふさわしい、何かがあった。
 AVとは、ポルノグラフィーとは、セックスの代用品かもしれない。パートナーを見つけられない寂しい男達が使う。もしくはラブホテル等で、恋人達はその行為を高めるために、ひとつの前戯として楽しむかもしれない。けれど、果たしてそれだけだろうか。
「アダルトビデオは誰のためにあるのか?」
 そう問われた時、僕は常に、
「社会のエッジを歩いている人のためだ」と答えている。
 それは決してアウトサイダーや、一般社会から落ちこぼれた人々に限らない。ごく普通に生活をし、立派な会社に勤め、美しい奥さんがいる男であっても、時に人生を迷うことがある。俺は今、正しい場所にいるのだろうかと。
 あるいはテレビを初めとしたマスコミに持てはやされるアイドル達に、どうしても感情移入出来ない少年がいる。また、広く観られている一般映画や、ハリウッドの大作に馴染めない人々もいる。決して男だけではない。女性の中にも、アダルトビデオに何かを強く求める人が、少なからず存在する。

 AVはVHSからDVDに代わり、ネットレンタルや動画配信も一般的になった。TSUTAYAを初めとする大手チェーン店が全国に展開し、街のレンタルビデオ店は一軒、また一軒と消えていった。我が家の近く、駅からアパートまで歩いて30分近くかかる一本道のちょうど中程にあった、あの小さな個人経営の店舗も、数年前に姿を消した。
 深夜、あの〈暖簾〉の向こう側に佇んでいた物言わぬ友人達は、いった何処へ行ったのだろう?

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 本書は1999年、メディア・ワークスより刊行された『アダルトビデオジェネレーション』から、ページの関係で数人の方のインタビューを削り、同時にその後の10年で活躍した人、数名を加えたものである。
 誰もがAVに何かを賭け、運命の船に乗り、波に煽られ人生の行き先を大きく変えられた人々──そう言って差し支えないだろう。
 今これを読んでいるあなたは、夜の深い時間、あの〈暖簾〉の向こう側に佇んだことがないだろうか。あるいは、自分が社会の隅に居ると孤独を感じたことがないか? もしもそうであるならば、いや、例えそうでなくとも、彼らの言葉に耳を傾けて欲しい。

「ワタシは、どうして、あの場所に、いたんだろう──?」

 ジュースになると信じて絞ったリンゴは雲になった。それは掴めるはずもなかった夢に似ている。けれど雲は何処かに雨を降らせ、それはまたもうひとつ、別の雲を作るだろう。あなたにもいつか、その雲を掴もうとする日が来るかもしれない。

AV黄金列伝 (文庫ぎんが堂)

AV黄金列伝 (文庫ぎんが堂)

AV黄金時代・序章──太賀麻郎という名の伝説  文=東良美季

 ひとつの都市伝説があった。
 それは一九八〇年代も後半に近づいたある夜、六本木交差点から飯倉方面へと外苑東通りをワンブロック。とある歓楽ビルへと、一人の男が入ろうとしていたところから始まる。
 彼は有名芸能プロダクション社長。いや、芸能界の大物と呼んだ方がふさわしいだろう。進駐軍の通訳からそのキャリアをスタートさせ、昭和を代表する大御所演歌歌手の運転手を経て芸能事務所を立ち上げた。今や、常にヒットチャート上位にランクされるアイドル歌手を、何人も抱えている。そして同時に彼は、この街、夜の六本木を見続けた男でもあった。
 太平洋戦争が終わり、それまで旧帝国陸軍が占有していた土地に、アメリカ占領軍が駐留。騎兵師団が「ハーディバラックス」と呼ばれる基地を設けた時からこの街は目覚め始めた。米兵相手のクラブやレストランが数多く開業され賑わうが、朝鮮戦争終結に伴いアメリカ人の客は少なくなり、それに代わって集うようになったのが、まずは基地内で演奏していた日本人ジャズマン達だった。その中には後に渡辺プロクション代表となる、シックス・ジョーズ渡辺晋日本テレビ制作局プロデューサーとして『シャボン玉ホリデー』他ヒット番組を多数制作することになる、チャックワゴン・ボーイズの井原高忠ホリプロ創業者として山口百恵他を育てることになる、スウィング・ウエスト堀威夫と言った人物もいた。つまり、昭和の芸能界というものを作り上げた人々である。
 六〇年代が近づいた頃、米軍施設は返還され、代わりに防衛庁が移設される。同時にNETテレビ(現在のテレビ朝日)が出来、芸能人を始め、お洒落な若者がこの街に集まるようになる。「六本木族」と呼ばれた、アメリカンナイズされ、ヒップで洗練された不良どもだ。彼も、そんな中の一人だった。誰もが鼻っ柱が強く、喧嘩っ早い奴もいたが、反面クールで粋で、何よりも高い志を持っていた。
「ところが今はどうだ──?」
 彼は今、運転手に車を駐車場へ廻しておけと告げ、ビルのエレベーター・ホールへと向かう。3階にあるクラブで仕事の打合せがあった。
 八〇年代に入り、六本木は変わり果てた。いや、朽ち果てたと言っても良いだろう。洗練を良しとした大人の遊び場は次々と消え失せ、軽薄なディスコティックが乱立した。若い女達はホディコンシャスと呼ばれる、パンティの見えそうな下品な服を着て、男達は文字通りそのケツを追いかけるだけ。今もこうしてエレベーターのボタンを押そうとして、廊下の向こうにある非常階段を、二人の若者が薄笑いを浮かべ、くわえ煙草で昇っていくのを見た。一人に見覚えがあった。これから向かう行きつけの店の従業員だ。休憩を終え、店に戻るところだったのだろう。
 思わず「チッ」と舌打ちする。客の眼のあるところで煙草なんぞ吸いやがって。かつてこの街で働く者は、礼儀として絶対にしないことだった。例え仕事を離れると、手の付けられない不良であったとしても。
「いや、しかし──」
 と動き出したエレベーターの中で彼は苦笑する。そうやって若い連中に対していちいち腹を立てるということ自体が、俺が歳を取った証拠ではないか。俺は若い奴らが好きだったんじゃないのか。やんちゃで、はめを外し、常に規格外で大人達のひんしゅくばかり買う奴ら。だからアイドルなんて人種を何人も育てて来たのだ。彼は今年、五〇代を迎えようとしていた。

 エレベーターのドアが開いた。降りようとすると、ちょうどさっきの従業員二人が眼の前を横切るところだった。
「社長、いらっしゃいませ!」
 見覚えのある年かさの方が気づき最敬礼し、若い方を促した。二人とも最近映画『ストップ・メイキング・センス』で話題の、ニューヨークのニューウェーヴ・バンド、トーキング・ヘッズのリーダー、デヴィッド・バーンを気取っているのか、だぶだぶのズート・スーツを着ている。それは良いのだが、若い方が下に着た白いドレスシャツの襟を、だらしなく外に出しているのだけはいただけなかった。
「おい、お前」と彼は若い方を指さす。
「別にネクタイ絞めろとは言わねえから、襟だけはきちんと入れとけ。客商売なんだからよ」
 そう言って店に入ろうとすると、「いや、でも──」と背後で声がした。振り返ると年かさの方が肘をつつき、「バカヤロウ、言われた通りにしとけ」とたしなめた。
「いいから、言いたいことがあれば言わせてやんな」
 そう言うと、若い方は、
「あのォ、でもコレ、麻郎ルックって言うンすよ」
 と唇を尖らせて見せる。
 その口の聞き方があまりに幼く世間知らずだったので、強面で知られた彼も思わず表情を崩した。
「何だよ、その、アサオなんとかって?」
「太賀麻郎っす。社長、知らないすか」
 年かさの方が「バカ、てめえは黙ってろ。ご存知なはずねえだろ」とそいつをこづいた。
「すみません。太賀麻郎ってのは、最近有名なビデオの男優なんです」
「ビデオ──、ビデオって何だ?」
「あのぉ、エロビデオです。えーと、その、レンタルビデオ屋で借りるヤツです。だから社長のような方がご存知なはずないんで」
 年かさの方はしきりにそう言って恐縮してみせる。
「ほう。最近じゃそういうビデオにも有名な男優がいるのか?」
 彼がそう訊ねると、若い方は眼を輝かせた。
「麻郎はスゴイんです。特別なんです。カッコイイし、俺より一つ年上なだけだからまだ23なんですけど、もう千人以上の女と寝てるんですよ」
 その言い方が益々子供っぽく無邪気だったので、彼は声を上げて笑ってしまった。若い男ってのはどの時代でも変わらない。結局女とヤリたいのだ。それもバカだから、イイ女と出会うよりも、その数を自慢したがる。従って若くして千人以上の女とセックスした男がいたとしたら、それだけでヒーローになれる。

 お辞儀を繰り返して従業員通用口へ消えた二人を見送り、彼は店に入る。此処は六〇年代から変わらない老舗のサパークラブだ。極端に照明が暗く、テーブルにはキャンドルが飾られている。店のママとマネージャーが迎えた。
 それにしても──ビデオってヤツは今、そんなにも若い連中に観られているのか?
 巷で話題だからと、『洗濯屋ケンちゃん』という裏ビデオを見せられたの何年前のことだったか。まだビデオデッキというものが家庭に普及していない頃だったはず。彼は職業柄、当然持っていた。だから知り合いの広告代理店の男だったか局のプロデューサーだったかは忘れたが、誰かから薄笑いと共に「コレ、今話題のアレですよ」と1本のVHSテープを手渡されていた。
 しかし、男性週刊誌等で〈日本初の無修正ポルノ!〉と謳われたそれは、おそらく闇雲にダビングが繰り返されたのだろう、何ともひどい画質だった。出て来る女も男も下品で芝居が下手で、いやそれ以上に、テレビ局の元ディレクターによる作品とのふれ込みにも関わらず、その内容が手垢の付いたステレオタイプな、いかにも古臭い情交劇だったことにウンザリした。
 エロビデオを作る連中というのは、こんなにも感性がダサイのか。いや、そういう根性だから一流になれず、エロビデオ稼業になんぞに身を落としているのだろう──そう思わずにいられなかった。彼は、芸能とは基本的にヤクザな商売だと考えていた。真っ当な世間様に向かって、お天道様の元を歩けないような連中が歌手になり役者になり、カタギの皆さまを楽しませる。作り手も同様。イキがって向こうっ気だけは強いものの、地道な商売が出来ない不良どもが作ってきたのが、この国の映画でありテレビであると信じていた。だったら、エロビデオなんてヤバイものに手を染めるなら、徹底的にアナーキーに作るべきだろう。と。

 けれどあれから何年が経つのだろう? 6年か、7年か。あの手のビデオも今は合法的なメーカーが何社も出来、制作を手がけているのだろう。だいいち若い方の従業員が口にしたように、最近街にはレンタルビデオ店というものが目立つようになっていた。彼自身は足を踏み入れたことはないが、局の映画好きの若いディレクターなどは、せっせと通いかつては映画館でしか観られなかった作品を、自室で楽しんでいると聞く。ならばエロビデオのような世界にも、スター男優が生まれていても不思議ではない。
 俺は知らず知らずのうちに、時代から遅れていたのだろうか? 
 そう、あの若い方に、「社長、知らないすか?」と言われたのも引っかかっていた。自分が扱うのはアイドルだ。客も当然皆若い。感性だけは常に若く、新しいものにアンテナを張っていたつもりだったのだが。

 先方は既に席についていた。同業のプロダクション専務。こちらは若手のアクション系俳優を数多く抱えている。そこの「番頭」と呼ばれる男。もう、20年来の仲だ。そして局のプロデューサーと、20代後半の若いディレクター。今年秋から始まるドラマの打合せだった。
 仕事の話は早々に終わり、ディレクターが「局に電話入れてきます」と立ち上がった時、彼は専務に尋ねてみた。
「あんた、最近ポルノのビデオなんて観るかね?」
「何です、藪から棒に」
 と笑われた。
「いや、さっき此処の若い衆に言われたんだよ。色々と話題になってるって」
「エロビデオがですか?」
 専務がそう言うと、
「最近はアダルトって言うそうですよ」
 とプロデューサーが口を挟んだ。
「気取った言い方しやがんだな」
 専務はまた笑う。
「あなたはそういうの観たりする?」
 プロデューサーに訊いてみた。
「観はしませんけど、商売柄情報は入って来ますよ」
「商売柄ってどういう意味だね?」
「去年辺りから深夜のバラエティが人気でしょう、CXの『オールナイトフジ』とか、日テレの『海賊チャンネル』とか。あれでビデオの女の子が出るコーナーは確実に数字が取れるんですよ」
「そんなもんかね」
「ええ。ウチでも2時間ドラマの探偵物で、温泉のシーンとかありますよね。古谷一行さんが女の子と一緒に入るような。ああいうのでも、売れてるビデオのコを仕込むと数字が上がるそうです」
「太賀なんとかっていう男優、聞いたことあるかい?」
「いやあ、男優の名前まではちょっと・・・ただ、最近は作品的にもすごいものはあるそうですよ、ドキュメンタリーとして」
「まあ、男と女が本当にヤッちゃってるわけだからね、実際」
 と専務もため息交じりに言う。確かにそうだ。ビデオカメラの前で、演技ではなく本当にセックスするということ──それでいてあの若い従業員が言うように「カッコイイ」のなら、それは心底「スゴイ」ことなのかもしれない。
「何の話です?」
 電話を終えたディレクターが戻って来た。
「アダルトの話だよ」とプロデューサー、「ビデオの男優で、えーと、何でしたっけ、太賀・・・」
「ああ、太賀麻郎ですね」
 若いディレクターはこともなげに言う。
「有名なのか?」
「どうなんでしょうね。名前はよく聞きますよ」
「でもビデオの世界と言えば村西とおる監督とかじゃないの? それと黒木香
 プロデューサーはそう主張する。
「村西さんを支持するのは主に中年のサラリーマンですよ。ああいう絶倫に憧れるんじゃないですか。あんなふうに中年になっても若い女をセックスで意のままにしたいという。麻郎はもっとカルトですよ。大学生の男とか、10代の女の子とかがキャーキャー言ってる」
「何がそんなに人気なのかね」
 専務が訊く。その男優に少し興味が湧いてきたようだ。
「さあ、僕もちゃんと観たことはないから。ただ、去年だったかチチョリーナが来日しましたよね。あの時相手をしたのが麻郎なんです。それで一般的に名前が知れ渡った」
 ディレクターはそんなふうに答えた。
「そういう男をドラマに起用するなんてアリだと思うかね?」
 専務はそうプロデューサーに訊く。
「問題が無いとは言えないでしょうね」
「問題って?」
「そりゃあ深夜ならともかく、ゴールデンタイムにやったら非難囂々でしょう」
「苦情の電話が殺到しますよ。『セックスを仕事にしてるヤツをテレビに出すとは何事だぁ〜!』って」
 そうディレクターはおどけてみせる。
「僕の首は確実に飛びますね」
 とプロデューサーも笑った。
 しかし──と、彼は思う。そういう男こそ、礼儀正しくこぢんまりとまとまったしまった今の芸能界には必要なのではないか。チンピラのような若者が憧れ、若い女がキャーキャー騒ぐような危険なヤツ。今求められているのは、そんな現代の不良だ。
 その太賀という男の顔を、一度見てみたいものだ──彼はそう思っていた。

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 繰り返すが、これはあくまでも都市伝説である。
 想像するに、当時六本木界隈で遊んでいたビデオギャルが何処かからか仕入れて来た噂話に尾ひれが付き、噂が噂を呼んで出来上がったエピソードであろう。本来登場人物はもっと具体的な人名、団体名で伝えられているが、細かい部分は差し障りがあるので変更してある。

 ところで今、敢えてビデオギャルと書いたが、それは「AV女優」という呼び方が、この頃はまだ生まれていなかったからだ。アダルトビデオという名称すら定着はしておらず、業界の人間ですら「アダルト」、もしくは単に「ビデオ」と称していた。そんなビデオに出る女の子を「女優」と呼ばなかったのは、元々八〇年代初め、VTRによるポルノが作られ始めた頃、雑誌を中心に活躍していたヌードモデル達がその出演者に流用されたという歴史的背景もあるが、それよりも何よりも、街のスカウトマン達が女の子に出演を持ちかける際、「女優になれるよ」「タレントになりたくない?」「女優へのワンステップだよ」という口説き文句を使ったからだ。
 そう、多くのビデオギャル達が本気で「女優」になれると信じていた。フジテレビの『オールナイトフジ』からは現役女子大生によるオールナイターズが生まれ、『夕やけニャンニャン』からはおニャン子クラブが登場した。沢田研二山口百恵といったスターらしいスターが活躍した七〇年代とは違い、誰もが運さえ良ければ芸能人になれる──そんな甘い期待が生まれたのが、八〇年代という時代であった。

 しかし一九八六年、村西とおるというひとりの苦労人が、横浜国大在学中の才媛、黒木香という女子大生を主役にアダルトビデオを撮った頃から変わり始める。二人はウサン臭い魅力をたっぷりと抱えながらも、テレビに露出するやそのメジャーな世界に少しもおののくことなく、機転の利いた受け答えと他に類を見ない個性を以て、一躍人気者になってしまう。
 同時に、先に挙げた『オールナイトフジ』には、秋元ともみ、早川愛美といったビデオアイドル達が次々と出演。彼女達は各大学の学園祭にも引っ張りだことなり、本物のアイドルをも凌ぐ人気を獲得する。翌87年、大手ビデオメーカー宇宙企画より発売された『ぼくの太陽〜かわいさとみ』という作品は、4万5千本という売上げを記録し、オリコンのビデオチャート・ベストテンにランクインした。
 そして88年には、斉藤唯・冴島奈緒・葉山みどりというビデオ女優3人組のアイドル・ユニット「RaCCo組」が結成され、彼女達は六〇年代にはザ・ピーナッツが、七〇年代にはゴールデンハーフが唄ったヒット曲、『レモンのキッス』でクラウン・レコードよりデビューした。此処に来て「タレントになりたくない?」という口説き文句は、嘘から出た誠になったのだ。

 同時に、時代はいよいよバブルを迎えようとしていた。
 世の中全体が異様なほど豊かになると同時に、若い連中の遊びも派手になり、その盛り場も新宿・渋谷から六本木へと移っていく。当時のアダルト業界にはその街で遊び、自分も芸能人だと勘違いしたビデオギャルが腐るほど、いた。彼女達は口々に有名芸能人の名を挙げ、「昨夜は誰々と遊んだ」「誰々に口説かれた」「誰々と寝た」と吹聴して廻っていた。僕は八〇年代前半からヌードグラビア誌の編集者になり、平行してアダルトビデオの監督もやるようになっていたから、その手の話はうんざりするほど、聞いた。
 そんな中から、例えば〈田原俊彦と寝た女〉と言われた梶原恭子による、『ありがとうトシちゃん』(88年・クリスタル映像/監督・村西とおる)といった珍品も生まれたわけだが、それらすべてのいったい何処までが本当で、噂で、自慢話で妄想なのかは判らない。しかし噂は真実に近いぶんだけ、物語として一人歩きするものだ。

 そして、どういうわけか太賀麻郎に関する伝説も生まれた。
 麻郎自身が当時、夜の六本木によく出没していたということもあるのかもしれない。また、麻郎がビデオギャルから一般ピープルに至るまで、あまりに数多くの女性と浮き名を流したのも関係しているだろう。女の子達は少しでも彼の気を惹こうと、ありとあらゆる寝物語を持ち込んだ。とある男性俳優を数多く抱える有名芸能プロダクションが、麻郎を初めとする数名のアダルト男優をオーディションに呼んだという、まことしやかな噂すらあった。それに関しては僕自身が、オーディションに参加したと言われた男優の一人に真偽のほどを確かめ、「そんなアホな」と一笑に付されたことがあるので、まったくの出鱈目であった可能性が高い。
 しかし、これだけは言える。四半世紀にわたりAV業界というものを見つめ続けて来て、そのような伝説のオーラに包まれているのは、後にも先にも太賀麻郎しかいない。
 麻郎が通ったあとには数々の噂の花が咲き、心温まるエピソードが生まれ、嫉妬と愛憎が渦巻いた。そう言った意味で太賀麻郎は、あの儚くバカバカしくも美しい八〇年代、その時代のアイコンでありトリックスターであった。

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 僕が太賀麻郎と初めて出会ったのは、一九八七年だったと思う。
 その場所や目的はすべて忘れてしまったが、車の話をしたことだけを良く憶えている。彼が愛した中古のアルファロメオのことだ。それは倉本和比人監督作品『新・ズームアップ』(アリスJAPAN)シリーズの一本で爆破され、炎上大破していた。
「家を追い出されて以来、あの車で寝泊まりしていたからね。色々と愛着はあったんだけど、まあ、倉さんが『劇中で一度車を燃やしてみたい』って言うからさ。そういう監督の気持ちは大切にしたいからね」
 麻郎は実に淡々とそんな意味の言葉を口にした。
 そう言った意味で、太賀麻郎は当時から伝説の男優だった。作品のためなら愛車の一台くらい別に潰してもかまわない──彼にはそんな極端なところがあった。
 僕が出会った頃には東北沢だったか駒場東大前だったか、古ぼけた木造アパートに住んでいた。部屋は天井が外され梁が剥き出しで、何故か原付バイクが吊り下げられていた。一方床には大量の雑誌やら洋服、その家財道具一切が散乱していて、地層のように何層も折り重なる中、麻郎はその長い手足を伸ばしてうつ伏せに寝ていた。
 身長183センチ、ロンドンでスカのミュージシャンやルードボーイ達が着るズート・スーツを好んで着ていた。そしてリーゼントにサングラス。そのスタイルは何故か六本木の若いホストや黒服の間で流行り始め、〈麻郎ルック〉と呼ばれたのは先の都市伝説に書いた通り。一方僕の方は編集者を辞め、業界では大手と呼ばれるアダルトビデオ・メーカーで専属ディレクターになっていた。そして麻郎と僕は、男優と監督として仕事を共にするようになった。

 麻郎の父親が六〇年代を代表する高名な服飾デザイナーで、日本のファッション界の草分けと言われる人物であることを知ったのは、その少し後だった。大滝詠一のアルバム『ザ・ロング・ヴァケーション』のジャケットで有名なイラストレター・永井博は麻郎の従兄弟にあたる。だから彼の名も本来は「太賀」ではなく「永井」なのだが、アダルト男優をやっていることがバレた時、その父親が激怒し、「親戚中の面汚しだ!」と言われたため永井の名を封印した。
 太賀という姓は、七〇年代『少年マガジン』に連載された、梶原一騎原作・ながやす巧作画純愛漫画『愛と誠』の主人公・太賀誠から取ったとされ、その話を本人から聞いた時にはあまりに単純な発想と、意外に純粋な一面もあったのかと思わず笑ってしまったものだが、太賀麻郎には、そのような妙にストイックな一面もあった。
「俺はね、こう見えて硬派なんですよ」
 というのが当時の麻郎の口癖であった。
「じぁあその硬派が何だってビデオの男優になんかになったんだよ」
 と僕は訊いた。
「女の子と同棲することになって、たまたま金が必要だったこともあるけど、今思うと父親への反発があったのかもしれない。周りは誰しも俺がファッションの世界へ進むとばかり思って疑わなかったからね」
 小学生の頃から父親の制作するテレビCM等に無理矢理出演させられていた麻郎は、当時から芝居勘の良い子供だったという。高校時代は下北沢の暴走族で、他の族の車を金属バットで叩き壊したり、他人のバイクから勝手に部品を盗んでは自分のマシンを改造したりと気ままに遊んでいたわりに、父の盟友であり、セツ・モードセミナーの校長としても知られる長沢節から薦められると、芸術家の子女が多く通い、自由な校風で知られる文化学院に進学。演劇を専攻する。
 またその頃ちょうど、父親の弟子の一人であり、永井博の友人でもあったイラストレーターのペーター佐藤が渡米中で、「こっちへ来いよ。麻郎の顔は東洋的だから、アメリカでモデルをやれば絶対に成功する」と強く勧められた。若い人のために説明しておくと、松任谷由実『コバルト・アワー』(荒井由美・名義)のジャケットを手がけたのがペーター佐藤だ。加藤和彦率いるサディスティック・ミカ・バンドがロンドンでツアーを成功させ、続いてYMOが全米ツアーをした頃のことである。音楽性もあるものの、そこには日本人の持つエキゾチックな雰囲気が強く作用していたはずだ。

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 しかし太賀麻郎はそのように生きることはせず、アダルトビデオの男優となった。
 彼の絡み、つまりビデオに中でするセックスは、いつの間にか誰からともなく「麻郎マジック」と呼ばれ──実はビデオの中だけとは限らなかったのだが──天文学的数の女の子達を虜にしてしまうことになる。
 AV監督の端くれとして、麻郎のセックスが他の男優とかけ離れて上手かったか? と問われれば、果たしてどうだったろう。もちろん画面に写る彼には圧倒的な存在感があった。けれどそれよりも何よりも、麻郎は言葉にしがたいサムシング・エルスを持っていた。それは我々監督やスタッフ他、男をも引き込み魅了するところがあった。
 180センチを超える長身でボサッと突っ立っている姿からして常に尊大で、ぶっぎらぼうで生意気な口の聞き方。外国映画の主人公のように、あからさまに格好つけて肩をすくめて見せる仕草。かと思うと妙に礼儀正しく律儀で真面目くさり、何より麻郎は時折、まるで雨の夜に捨てられ濡れた子犬のような、吸い込まれそうに寂しい眼つきをすることがあった。あの瞳を見てしまうと、たいていの者は彼から離れがたくなった。若い女の子であれば、尚更であったろう。

 麻郎がティーン向け女性雑誌『ポップティーン』に連載していたコラム「麻郎に訊け!」には、毎月50通前後のファンレターが殺到した。「AV男優」という職業が確立されていなかった頃だったこともあり、ほとんどの女の子は麻郎が何者か判らないまま手紙を送ってきたらしい。中には「麻郎クンのブロマイドは何処へ行ったら売ってるんですか?」という、地方に住む純粋過ぎる女の子からの質問もあったという。
 多くのビデオ女優が麻郎と共演したいと言い、麻郎とセックスしたいという目的でAV女優になってしまった女の子も一人や二人ではなかった。
 そして悪いことに麻郎は、その独自の「硬派」的ポリシーから、言い寄って来る女性の、そのほとんどを受け入れた。
「女の子に誘われたら、男は断っちゃいけないと思うんだよね」
 というのが、当時彼が口にしていたもうひとつの口癖であった。
「女が男に『セックスして欲しい』というのは、ずごい勇気がいることだから、その気持ちは大切にしてあげなくちゃいけないんだよ」と。
 だから麻郎は、ひどい時には100人以上の女の子と同時に付き合っていた。本人はそれを「100人同時チンコウ(進行?)」とフザケていたが、おそらく街を歩いていても、どの娘が自分の彼女でどの娘がそうでないのか? 麻郎自身にも区別がついていなかったはずだ。
 そうやって麻郎が片っ端から女の子とプライベートな関係になってしまうので、AV女優を抱えるプロダクションは彼を警戒し、麻郎はいつしか悪名高き「NG男優」とのレッテルを貼られることになる。
「ウチの女に手を出した」と、ヤクザまがいのモデル事務所に呼び出されるのも日常茶飯事だったらしい。僕自身も作品を撮る際、マネージャーから「男優は誰ですか?」と問われ、「太賀麻郎」と答えると、「麻郎だけは勘弁してください」と何度も言われた。それでも、麻郎を逆指名して来る女の子は跡を絶たなかった。
「なんだってそんなに何十人もの女の子と同時に付き合わなくちゃいけない? せいぜい5、6人にしとけば良いじゃないか」
 と僕はある時訊いたことがある。すると麻郎は、
「それは東良さんがセックスてものを良く判っていないからかもしれないね」
 と言った。
「麻郎は判ってるんだ?」
 そう問いかけると、
「いや、本当のところ、俺も判っちゃいないんだけどさ」
 と麻郎は笑った。
「ただ、セックスしてる、その瞬間は判るよ。その女の子のすべてが判る」
「何日、何ヶ月、何年と付き合うよりも?」
「うん。幾晩語り明かし、何千何万という言葉を交わすより、たった一度セックスした方が判る。ねえ、何故だと思う?」
 麻郎はそう言って、例によって雨の夜に捨てられた子犬みたいな眼で僕を見た。
「さあね」僕は答える。
 麻郎は言った。
「それはね、人間は今しか判らないからさ。俺達は今、この瞬間しか理解することなんて出来やしない。長い時間なんて、永遠の謎でしかないのさ──」

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 人間は今、この瞬間しか理解出来ない。長い時間なんて、永遠の謎でしかない──。
 麻郎はそう言ったけれど、まるでその言葉のように、彼は八〇年代と共にアダルト業界から忽然と姿を消した。

 八八年の終わり頃だった思う。『オレンジ通信』(東京三世社刊)というAV情報誌にて突然、太賀麻郎は「男優引退宣言」をした。理由は一切明かされず、本人は「俺は晴れ男だから、撮影のたびに快晴が続くので、水不足を恐れた気象庁が『お願いですから男優を引退してください』と頼みに来た」と嘯いていた。先の都市伝説に書いたように、大手芸能プロダクションが太賀麻郎の獲得に動き、無理矢理ビデオ男優を引退せさたという話や、七〇年代、ショーケン・水谷豊コンビでヒットしたTVドラマ『傷だらけの天使』がリメイクされることになり、その主役に抜擢されたのだというまことしやかな噂まであった。
 しかしその後、麻郎がメジャーな世界に姿を見せることは一切なく、件の『傷だらけの天使』が坂本順治監督、豊川悦司真木蔵人主演で映画化されたのは、それから10年近くも先の、九七年になってからである。
 忽然と姿を消した──と書いたが、実は義理のあるメーカーやプロデューサーから「どうしても」と乞われた場合、時々は男優として密かに出演していたらしい。また、監督として作品を手がけたものもあったようだが、八九年に僕の方がAV監督を辞め、しばらくアメリカに渡ってしまったこともあり、麻郎とはすっかり疎遠になった。そして日本に帰って来た時、業界の姿はすっかり変わり果てていた。
 バブル崩壊の大波はアダルト業界にも押し寄せ、そのすべてをなぎ倒していたのだ。

 アダルトビデオは元々、大いなる虚業であった。原価にすると1本100円程度のVHSテープに、如何にも「男の夢が詰まっていますよ」と吹聴し、定価一万二千円前後という値をつけ売るボロい商売だ。しかもその内容に、果たして真実があったかは疑わしい。セックスというものを写していますよと言いながら、あのモザイクの向こう側では「ただ、それらしく腰を合わせているだけ」という場合があった。いや、そういう疑似セックスの方がむしろ多かったと言って良い。
 かの村西とおる監督が開発し、一世を風靡した「顔面シャワー」という手法があった。セックスのフィニッシュの際、男優が女性の顔にザーメンを浴びせかけるという刺激的な映像だが、その本家本元は別として、多くの現場では偽物が使われた。老練な助監督が、ヨーグルトに卵の白身を混ぜて精液を作るのだ。かつてアダルトビデオを作っていた、元AV監督の僕が言うのだから間違いない。男優はペニスに添えたスポイトで、その偽ザーメンを巧みに女優の顔にかける。都合の良いことに、それらすべてはAVをAVたらしめている、「モザイク」という修正が覆い隠してくれた。しかも出演する女の子達には「女優になれるよ」「タレントになりたくない?」と嘘八百並をべ立てている。
 それが、八〇年代のアダルトビデオというものの正体だった。嘘はバブルという金の幻想を吸い込むだけ吸って巨大化した挙げ句、アッという間にはじけて消えた。

 バブル崩壊直前、村西とおるのダイヤモンド映像は黒木香に続き、松坂希実子、沙羅樹、野坂なつみ卑弥呼、田中露央沙と、まさにキラ星のような美形AV女優を専属にし、また豊田薫、伊勢鱗太朗といったスター監督を獲得。彼らに独立したレーベルを持たせると同時に、代々木上原に5億とも6億とも言われた自社ビルを購入。まさにダイヤモンド帝国を作り上げ君臨したが、九〇年の半ばを過ぎる頃には経営が傾き、翌年には事実上倒産した。
 ダイヤモンド映像に追いつけ追い越せとばかりに、仁科ひとみ、五十嵐こずえ、きららひかりと美少女AVアイドルを次々とデビューさせた新興メーカー・アロックスは、90年の創業からたった1年も経営が持たず倒産。アロックスは僕が編集者時代に深く関わった、「AVライターの草分け」たる奥出哲雄という人物が満を持してスタートさせた会社でもあったので、個人的に強い衝撃も受けた。他にも八〇年代、美少女物を中心に一世を風靡した宇宙企画を始め、KUKI(九鬼)、VIPエンタープライズと言った老舗メーカーも、次々と事業規模を縮小、あるいは経営を分割するなどし、かろうじて生き延びた。
 本書のタイトルになっている「AV黄金時代」は、まさに夢のように終焉を迎えた。八〇年代のアダルトビデオとは、ある日この地上に突然現れ我が物顔で暴れ回り、そしてアッという間に姿を消した、太古の恐竜の如きメディアであった。

 そして同時に伝説の男優・太賀麻郎も、完全にその姿を消した。

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 再び太賀麻郎の名が表舞台に登場するのは、それから10年以上もの長い時間が経ってからだ。

「企画女優」と呼ばれる、業界の最底辺にいるAV嬢達の哀しい青春を描きベストセラーになった、『名前のない女たち』(宝島社)という本を書いた作家の中村淳彦が、その映像化とも言えるドキュメントAV、『恋愛出来ないカラダ』(あけぼの映像)という作品を制作することになり、男優として麻郎を起用したのだ。
 僕は九〇年代半ばよりAVライターとして業界に戻り、麻郎の噂はちょくちょく耳にしていた。しかしそれは、お世辞にも芳しいものではなかった。
 曰く、男優も監督も辞め、ヤクザの下働きのような、用心棒のような暮らしをしている。さらにそんなヤクザ関係のトラブルで日本にいられなくなり、バリ島へと逃げた。やがて日本に戻り、川崎だか鶴見だかで、麻郎の顔で古参のAV女優をかき集め、場末のランジェリー・パプを営業したものの、共同経営者が金を持って逃げ、麻郎はまたもやヤクザまがいの借金取りに追われることになった──等々。
 どの噂もかつての栄光を知る者にとってはひたすら悲しく、古い友人としてはやるせなく切ないものばかりだった。

 だから中村淳彦が雑誌ライターとしてたまたま出向いたAVの現場で麻郎と出会い、「麻郎さんはカリスマだ!」「こんなすごい人は、腐ったエロ業界にいるべきではない」云々と言い出した時も、正直鼻白む思いがしていた。
 だいいち麻郎はそのランパブ経営に失敗した後、九〇年代後半からは少しずつ監督としてAVを撮り始め、僕はその作品を数本観ていた。
 僕もある時期とても近い所にいた、先に書いた新興メーカー・アロックスの元代表・奥出哲雄の仕切りで、その制作の下請けの下請け、つまりは孫請けのような形で、麻郎は恐ろしく陳腐なAVを撮っていた。八〇年代終わり、何故か突然「男優引退宣言」した麻郎に、監督としてAVを撮るよう強く勧めたのが奥出であり、その義理があると思われた。
 しかしかつての「AV黄金時代」とは違い、その頃のAVはギリギリまで低予算を強いられるものであり、麻郎の現場もあからさまに金が無いのでロケ内容はショボく、出演者もまさに最底辺の企画女優であり、安い家庭用カメラで撮った、作品としての輝き、そののひとかけらも感じられない映像が、ただダラダラと続いた。
 いやそれよりも何よりも、演出しつつ時折画面に映る麻郎の姿に、僕は愕然としていた。かつての美少年ぶりとはまるで別人で、おそらく体重は20キロ近く増えていただろう。ブクブクとだらしなく太り、常にリーゼントで決めいてた髪はボサボサで白髪が交じり、色白で輝いていた肌は茶色く疲れ果てていた。それはまるでドーナツを食い過ぎて死んだ、エルヴィス・プレスリーの晩年のようであった。

 二〇〇〇年代に入っても悪い噂は続いた。麻郎はタチの悪い女に引っかかり、出来婚をして二人の娘をもうけたものの、妻になった女は子供達を麻郎を押し付けて姿を消した挙げ句、六本木を舞台に大量の覚醒剤だか向精神薬だかを売りさばく事件を起こし逮捕された。
 02年、麻郎が組んでいたプロデューサーの奥出哲雄が、猥褻図画販売の容疑で逮捕拘留された。「薄消し」と呼ばれた非合法AVを制作したのだ。麻郎は逮捕を免れたものの、奥出がアロックス時代の負債を抱えていたいたので、彼が身代わりに金策に走っていたらしい。麻郎はすべての借金を背負った挙げ句、自己破産した。
 二人の子供を抱え、麻郎は金が欲しかったのだろう。そのためにはヤバイ仕事にも手を出さずにはいられなかったのだ──そう思うと、惨憺たる気持ちになった。
 奥出は勾留されたものの実刑にはならず、執行猶予でシャバに出たものの、非合法AVには必ず暴力団関係者が背後にいる。彼らに追われ、姿を消した。今は何処で何をしているのか判らない。大阪あいりん地区で労働者をしている、名古屋の風俗店に匿われている、都内でホームレス姿を見たと、噂だけが行き交った。
 奥出や麻郎のようなケースは、この業界では決して珍しいものではない。あの八〇年代、AV黄金時代を経験し、忌まわしきバブルの大波をくぐり抜けた者は、二種類しかいない。
 すべてをあきらめて静か余生を送る者と、夢をもう一度と願う者だ。

 あきらめた者達は深く沈み、夢見た者達は全員、もう一度夢破れいなくいなった。あの時代を共に過ごした監督、プロデューサー、会社経営者、そのほとんどが借金を抱え、誰かに追われ、この世界から消えた。村西とおると共に一世を風靡したAV女優・黒木香が94年に中野の簡易旅館の二階から転落し、「自殺未遂か?」と報道されたのを憶えている人も多いはずだ。
 死んだ人間も数知れず、いる。いや、むしろ元気に生きている者を探す方が難儀なくらいだ。九〇年代後半、奥出と同じく、麻郎と組んでいた大手メーカーのプロデューサーも、錯乱の果てに自殺したと聞いた。
 僕は、太賀麻郎とはもう二度と会えないだろうと思っていた。
 しかし──、

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 07年の9月、中村淳彦監督作品『名前のない女たち』(あけぼの映像)が、僕自身も評者に入っている老舗のAV批評誌、『ビデオ・ザ・ワールド』誌0同年上半期AVベストテンの第2位に入った。
 これは『恋愛出来ないカラダ』の続編的な意味合いを持つ作品であり、作者がベストセラーとなった書籍と同タイトルにしたこともあり、観る前からその力作度が窺えた。真咲ぴぃ子という大阪在住の、救いようの無いほど悲しい生活をしている10代の風俗嬢を描いたドキュメントであったが、この作品の本質的な主役は太賀麻郎だった。
 いや前作から、そしてシリーズを通して、中村の作品は太賀麻郎ありきで作られていた。僕は先に述べた理由で、それらの作品を何の期待もせずに観た。それに、麻郎が糖尿病を患っているという話も聞こえてきた。そうか、あの太って顔色が悪かったのは病気だったのか──そう思ったものの、さらに不安は募った。男の場合、糖尿病というのは性器の勃起能力が著しく減退するという。AV男優としては致命的な欠点だ。それでなくとも、太賀麻郎は既に40代を迎えていた。
 しかし、結論から書くと、すべては杞憂であった。

 まず、麻郎はまたもや別人のように、今度はすっきりと痩せていた。さすがに髪や肌に、20代の頃の艶や張りは戻らなかったが、そのぶん枯れたような中年男の色気を全身にまとい、何より画面に写る麻郎には、余分な体重と共に不必要なものをギリギリまでそぎ落としたかのような、言葉にはしがたい凄味があった。
 中村淳彦のAV作品には、その著書同様、救いようの無い女の子達ばかりが登場する。親から愛されなかった娘、虐待を受けて育った娘、人から裏切られ続けて来た娘、リストカットを繰り返す娘、薬に溺れる娘──彼女達は誰かから愛された経験が一度もなく、自分から誰かを愛そうとしたことすらなく、いや、誰かを好きになるという意味すら知らず、にも関わらず初めて性体験を持った12才、13才の頃から身体を売ることだけを覚え、文字通り売春婦として生きてきた女の子達だ。

 そんな少女達が、年齢的には父親のような麻郎にただ優しく抱きしめられるだけで、その閉ざしていた心を開き、子供のように笑い、ほとんどの場合彼にしがみついて号泣した。それは北風が吹き飛ばそうとするればするほどコートをかくなに脱ごうとしなかった旅人が、太陽に優しく照らされてその身をさらすという、あの童話のようだった。
 そこにはセックスとか下半身の勃起力とか、AV男優のテクニックで女をモノするというようなことは、一切関係無かった。
 伝説の「麻郎マジック」は健在だった。いや、僕は大切なことを忘れていたのだ。あの八〇年代AV黄金時代、ビデオ内でのセックスはほとんどが疑似だったのだ。にも関わらず、麻郎と絡んだ女優はエクスタシーを感じてしまい、彼に恋をし、「もう一度逢いたい」「セックスしたい」と訴えた。それが、麻郎マジックだったのだ。

 麻郎は、そんな救いようの無い女の子達を抱きしめ、こう囁いていた。
「君は君で良いんだよ」「君らしく生きれば良いんだよ」「とにかく今日まで生きて来られたんだからさ、今をこうして感じられれば良いんだよ」と。
 そう、人間は今、この瞬間しか理解出来ない。長い時間なんて、永遠の謎でしかないのだ──太賀麻郎は八〇年代と何ひとつ変わっていなかった。
 ただひとつ変わったところがあるとすれば、麻郎はもう、雨の日に捨てられた子犬のような眼はしていなかった。

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 僕が太賀麻郎と久しぶりにゆっくりと言葉を交わしたのは、二〇〇八年の11月、東京の外れ、清瀬ある複十字病院・結核病棟の屋上だった。
 僕は知らなかったのだが、麻郎は糖尿病とは別に、約10年前に結核も患っていた。それが再発し、入院ということになった。しかし本人はすこぶる元気で、あらかじめ電話で「見舞いの品は何が良い?」と訊くと、「煙草、買って来てもらえると嬉しいなあ」と言った。
「銘柄はウィンストンの赤。白いボックスもあるけど、アッチはダメだよ。ニコチンとタールが少ないんだ。肺にガツンと来る、赤を頼む」と。
 というわけで僕らは北風の吹きすさぶ病院の屋上に上がり、売店で買った温かい缶コーヒーを飲み、麻郎はウィンストンの赤を美味そうに吸った。
「入院患者が煙草なんて吸って良いのか?」と訊くと、
結核と煙草には何の因果関係も無いんだ。結核に関して言えば俺はプロだからね、一時期はコレで食ってたこともある」と答えた。
「食ってた?」
「この病気は治療費の95%が公費負担なんだ。俺の場合父子家庭だから残り5%も国が出してくれるからトントンだ。10年前はもっと出してもらえたんだよ。でも今は仕事が出来ないぶんマイナスだな。まったく、せめて缶コーヒー代くらい負担して欲しいよ。公費負担、コーヒーも負担・・・今の判った?」
 麻郎はそう言って、少し上目遣いに僕を覗き込み笑った。
 コレも忘れていた。昔から機関銃のようにこの手の駄ジャレを連発する男だった。たいして面白くはないのだが、AV女優達は何故か誰もが笑い転げた。
「父子家庭と言えば、お嬢ちゃん達はどうしてる?」
 僕は訊いた。
「俺みたいな病気とか、事情があって親と暮らせない子のための施設があるんだ。そこに預けてる。下の娘がまだ小学校一年で、コイツが甘えん坊でさ、俺が入院する前日は『パパ、死んじゃうの?』ってビービー泣いてたくせに、昨夜電話したら、きっと同じような子供がたくさんいて、修学旅行みたいで楽しいんだろうな。『パパ、しばらくは戻って来なくて良いよ』、だってさ」
 麻郎はそう言って美味そうに煙草の煙をくゆらせた。
 その間も、屋上には何人かの入院患者が上がって来て、麻郎に声をかけていった。結核は別名・贅沢病とも言われている。よほどの重症でない限り、投薬のうえ栄養を摂って、大人しく過ごす以外に治療の道はない。だから誰もが暇を持て余し、病室を抜け出し投薬や検診の無い午後の時間を、此処で過ごすのだ。どういう訳か外国人の姿が多い。皆、出稼ぎ労働者のようだ。おそらく劣悪な状況で働かされているため、この時代遅れな病気にかかってしまうのだろう。ブラジル、チリ、ベトナム、タイ──中国人の若い女の子が、麻郎に「センセイ。センセイ、コンニチワ」と声をかけていった。
「何だよ、先生って?」
「わかんない。何故かそう呼ぶんだよ。言葉が判らないからさ、日本人のオバサンの患者とかにイジメられるんだって。それで相談に乗ってたら『先生』って言い出した。俺は心の先生なんだって。身体の方は医者が先生だけど、心は俺が治すんだとさ。ホントかね」
 麻郎はそう他人事のように笑う。
 やはりこの男は何も変わっていない──八〇年代、ビデオに出る女の子達が訳も判らないまま強く惹かれていった、あの頃のままだ。
 こうして入院していても、複数のガールフレンドが「見舞い」と称してやって来て、この屋上の物陰で、フェラチオして溜まった精液を飲み干してくれるのだという。また、ソーシャル・ネットワーク・サーヴィスのミクシィ日記に、退屈しのぎに携帯で入院の日々を書いたら、会ったこともない20才の女子大生が、心配のあまり突然訪ねて来てしまったそうだ。

「麻郎の話を聞いて、本にしようと思うんだ。どう思う?」
 と僕は訊いた。
「どうかね。俺の話なんて本になるのかね」
 麻郎はあまり関心が無さそうにウィンストンを吸った。
「昔のことは覚えてる?」
「どうだろう、すごく良く覚えてることもあれば、まったく忘れてることもある。何しろひどい生活だったからね。一年365日撮影でしょ? 撮影で女の子と絡んで、アパートに戻ると女の子が待ってる。良く知ってる娘もいれば、一度会った切りで全然忘れてる娘もいる。中には会ったこともないくせに、何処からか俺の家を調べて突然来ちゃう娘もいる。それでセックスして、寝てると今度は朝、別の娘に起こされる。それでセックスしてからまた現場に行くんだ。良く生きてたと思うよ」
「確かに──」と僕は答える。
「死んだヤツも多い」
「そうだね」と麻郎。「こうして入院なんてしてるとさ、夜中に時々思い出すよ。そうか、あの娘も死んだ。あの娘も死んじゃったんだっけって」
「女の子だけじゃないよ。監督も、カメラマンも照明マンも、ライターも、いろんな連中が死んだ」
 僕はそう言って、我々はしばらく黙り込む。
「ねえ、生きてるヤツは何してるんだろうね」
 そう麻郎は僕の方を見て、笑顔を見せた。
「元気にやってるのかな? 女の子達はみんな結婚して、お母さんになってるかもね」
 そして僕らはかつてお互いに仕事をした、あるいは私生活で付き合いのあった女の子達の名前を、思い付くままに挙げてみる。

 竹下ゆかり、橋本杏子、中村京子、杉本未央、三沢亜也、田代葉子、和田よしみ、大滝かつ美、藤村真美、森美由紀、上杉久美、松岡愛子、志方いつみ、叶麗華、番匠愛、中沢慶子、小林ひとみ、中川えり子、井上あんり、斉藤唯、冴島奈緒、葉山みどり、村上麗奈、東清美、前原祐子、仲村梨紗、森村あすか、咲田葵、豊丸、沙也加、麻宮涼子、大沢裕子、加納妖子、沖田ゆかり、宝条輝美、舞阪ゆい、有希蘭、栗原早記──、

「そうだ、お父さんはどうしてる? 元気にしてるの」
 僕は突然思い出す。あの、ビデオ男優になった息子を激怒して勘当し、「親戚中の面汚しだ」と、結果的に太賀麻郎を名乗るきっかけを作った麻郎の父親だ。
「何とか生きてるよ。親父も糖尿でね。一緒に病院へ行って、お互い『俺の方が数値が下がった』『上がった』って言い合ってる。もう歳なんで、俺が病院まで車で送っていったりね」
「放蕩息子も帰還したというわけだ」
「何だい、それ?」
ローリング・ストーンズの唄にあるんだよ。元々は古いブルーズだけどね。昔仲違いして家を出た息子も帰って来たって、年老いた父親は歓ぶっていうような、そんな唄だよ」
 麻郎はそれには答えず、屋上の手すりに肘をかけ、ウィンストンを吹かしながら遠くを見ていた。彼の視線の先に、遙かなる八〇年代と、AVの黄金時代はあるのだろうか? 
 どちらにせよ、太賀麻郎はかつて同じ時代を過ごした仲間達に、そしてあの時代にAVを観ていたかつての少年達に、こう問いかけるだろう。

 なあ、みんな元気にやってるかい? 俺は相変わらずピンピンしてるぜ。何故なら、俺達は今、この瞬間しか理解出来ないんだ。長い時間なんて、永遠の謎でしかないんだからな──と。

AV黄金時代〜5000人抱いた伝説男優の告白 太賀麻郎+東良美季・著(イースト・プレス刊)

AV黄金時代 5000人抱いた伝説男優の告白 (文庫ぎんが堂)

AV黄金時代 5000人抱いた伝説男優の告白 (文庫ぎんが堂)

※以下、『AV黄金時代〜5000人抱いた伝説男優の告白』の全540ページ内、約50ページの導入部を公開します。尚、商品本編の方は、大幅に削除・訂正が行われています。故に以下は未発表ロング・バージョンになります。

AV黄金時代・序章──太賀麻郎という名の伝説(未発表ロング・バージョン)


生と死、快楽、欲望、青春──。
アダルトビデオ産業の闇と光を告白した実録ノンフィクション。

伝説の男優、太賀麻郎。
あの1980年代、絡んだ女優たちはエクスタシーを感じて、「もう一度会いたい」、「セックスしたい」と訴えた。
無数の女たちを虜にした彼は、その女の心の哀しみまでも抱きしめ、セックスで幸せにしていった。
まだアダルトビデオという名前さえなかった時代、女たちは何を希求したのか。
男たちは何を掴もうとしたのか。
AV創世記はいかに黄金時代を迎え、やがて崩壊していったのか。
ヤクザ、覚醒剤、風俗、哀しくも強かな女たち、苦悩、快楽、青春、生と死。
伝説男優が欲望産業の闇と光を告白した実録物語。

林ひとみ竹下ゆかり、トレーシーローズ、井上あんり、咲田葵、豊丸、仲村梨紗・・・・。
有名女優たちの素顔の孤独と哀しみの素顔と、アダルトビデオ業界の素顔

【解説・代々木忠

インディーズAVにおける林由美香

女優 林由美香 (映画秘宝COLLECTION (35))

女優 林由美香 (映画秘宝COLLECTION (35))

 

【はじめに】
 松江哲明監督によるドキュメンタリー映画『あんにょん由美香』が、ポレポレ東中野にて好評上映中ですが、その制作のきっかけとなったのが上記『女優・林由美香』という本です。東良美季もその中で3本、コラムを執筆しておりますのでアップしてみました。B5版318ページに及ぶ分厚い本ですが、これをお読みになりご興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、購入し読んでみて頂けたら幸いです。柳下毅一郎香山リカ切通理作といった方々を初めとする力の入った、林由美香に対する愛情溢れた文章が詰まっています。松江監督も執筆されています。



【インディーズAVにおける林由美香
 おそらく別項でどなたかが触れられていると思うけれど、林由美香の通夜告別式には本当に、驚くほど数多くの人が参列したと聞く。僕は7月の1日に行われた通夜に顔を出した。彼女の地元である板橋の斎場、非常に大きな会場にも関わらず、遺影のある場所は親族と幼馴染みを初めとしたたくさんの友人達に埋め尽くされ、他の参列者は別室に列をなして並び、およそ50人づつくらいが順に焼香に向かうというスタイルが取られていた。遠くに何人も旧知の顔を見つけることが出来たが、会場が広いのとあまりに人が多いのでほとんど声をかけることも出来なかった。ただ、焼香を済ませて外に出ようとした時、男優の平本一穂と出会った。平本はひとり壁にもたれて立ち、少し青ざめたような顔をしていた。
 AVの世界にあって、平本一穂は初期から林由美香と付き合いの深い男優の一人である。89年、カンパニー松尾監督による『あぶない放課後6』が初共演ではなかったか。続く名作と言われる『硬式ペナス』でも相手役を務めている。眼が合ったので近づき挨拶した。
「最近も付き合い、あったの?」と訊くと、
プレステージでサブ(助演)をちょこちょこお願いしていたから・・・」と言葉少なに答えた。
 プレステージとは若い人達の立ち上げた新興のインディーズ系メーカーである。永遠の高校生、いつまでも学ランの似合う男と呼ばれた平本一穂も40才を越えた。風貌的にはあまり変わっていないように見えるが男優一本でやるには体力的な問題もあるのだろうか、ココ2年ほどはそのプレステージからの監督作リリースがコンスタントに続いている。
 林由美香らしいな、と思った。おそらく電話一本で、詳しい内容やギャラなども尋ねたりせず受けていたのだろう。携帯電話片手に「あー、ヒラモっちゃん、久しぶりー元気ィ?」「イイよー、空いてるよー」などと笑っている姿が眼に浮かぶ。結局、AVがセル=インディーズの時代になっても、林由美香はそのように生きたのだ。最後の最後まで──。
 
 セル=インディーズAVというものがどのように始まったかには諸説あるが、やはり94年に始まった《ビデオ安売王》(以下、安売王と略)の存在が大きいはずだ。ガソリンの激安チェーン店で大成功した佐藤太治という人物が今度は日本初のアダルトも含んだセルビデオチェーン店を全国展開するとブチあげ、週刊誌各誌に「儲かりまっせ」とばかりにフランチャイズ店募集の公告を大々的に打った。これによって全国各地にソフトウェアの出口たるショップが数多く生まれ、これが現在まで続くセルビデオの基盤となった。しかし、その反面安売王はソフトの供給源たる制作サイドをないがしろにしていた。あるいは根本的にエロビデオ作りというのをナメでいたのだろう、タチの悪い下請けプロが巣くう温床となり、巨額の制作費から九割以上の粗利を中抜きされた挙げ句店頭には粗悪品ばかりが並び経営は一気に傾いた。

 ただ、そんな下請けの中に唯一、志と正義感に溢れた人物がいた。それが高橋がなりである。高橋は制作会社ロコモーションを率いて安売王から制作受けしていたが、あまりに粗雑な発注状況に業を煮やし自ら制作の乗り込んでいくがその時すでに時遅し、代表である佐藤太治が風営法違反で逮捕されたこともあり安売王はその短い命を終える。しかし高橋はすでにソフトの出口たるショップが全国に展開していることにビジネスチャンスを見る。そこで、かつての恩師であるテリー伊藤より資金を融資して貰い設立したのがソフト・オン・デマンド(以下SODと略)であった。これによってAVにセルビデオという世界が本格的に誕生するのである。

 さて、それがマスからの流れだとすると、まさにインディーズの本流たるマニアビデオからの源流もある。93年、弱冠23才にして渋谷道玄坂にザーメンビデオ専門ショップ「ミルキーショップ・エムズ」を開店し、自らも過激なオリジナルビデオを制作。「渋谷に松本あり!」と言われていたAV監督・松本和彦である。松本は94年、佐藤太治より傾き掛けた《ビデオ安売王》を何とかして欲しいと依頼を受け、六千万の予算で10巻セットの大作『一期一会』に着手。が、半金の三千万で制作に入った所で安売王が倒産、いったんは暗礁に乗り上げるものの当時業界最大手であった問屋イズ・エンタープライズの協力を得て完成。それは総数20万本を越える空前の大ヒットとなる。松本は95年になってレンタルで活躍していたTOHJIROらと共にSODの監督主導レーベル「ON」に参戦。ココに来てAVはいよいよレンタルからセルの時代へと完全に移行した。

 高橋がセルAV業界に成した改革はあまりに多すぎて枚挙に遑がないが、二つ重要な点を上げるならまず、一本一万円以上というバカげた価格を三千円以下に下げたこと、そしてもうひとつはアダルトビデオというものを、判りやすいジャンルに分けたということだ。そしてこれは偶然にも、松本が成功した秘訣でもあった。彼が大ヒットさせた『一期一会』は一本ずつが「露出」「ザーメン」「スカトロ」と言ったジャンルに分類されていた。これによって、ユーザーは自らの性癖を判りやすくチョイスすることが出来るようになった。つまり従来の「エロビデオは当たるも八卦〜」という悪しき風習が崩れたのだ。一泊300円なら仕方ないかと諦められるレンタルではない、「金を出して買うAV」にこの発想の変換は必要不可欠であった。

 さて、林由美香である。この改革によって本当に様々なことが変わった。例えば「熟女物」というジャンルが出来た。これは今考えると本当に不思議だ。世の中には女子高生のような若い女が好きな男もいれば、成熟した女性を好む者もいるだろう。しかしレンタルオンリーだった時代には、あたかも「女は若くないと価値が無い」とばかりにそういうニーズはすべて切り捨てられた。25才以上はオバサンと呼ばれ、ピンク映画の世界ではキャリアを重ねた女優はそれなりに重宝されるしファンに支持もされるが、それ以前のAVでは「鮮度の落ちたAVギャル」と言われ仕事を発注する制作者すら激減するのが現状であった。

 そのSODがセルビデオメーカーとして台頭し、AV界に旋風を巻き起こし始めたその年95年、1970年生まれの林由美香はまさに25才。3才年上の川奈まり子(67年生)、4才年上の瀬戸恵子(66年生)らが登場し熟女ブームが起こるのがその約3年後。林由美香もやはりその波に乗り、AVアイドルから熟女スターへと見事転身し活躍した──、かと思えばまったくそんなことは無かった。そして、AVの世界からは次第にお呼びがかからなくなり、その活動の場をピンク映画にシフトしていったかと思えば、実はそれも、そうでもないようなのだ。熱心なファンの方がネット上にアップしている彼女のインディーズAV主演作は、クレジットがあり確認されている物だけで軽く100本を越えている。未確認の物、クレジットの無いものも合わせればおそらくその四、五倍に及ぶのではないか? また、松本和彦による『'95夏の陣』(95年MVG)というザーメンビデオや、SODからは熟女物監督の第一人者・溜池ゴローによる『全裸特別●護老人ホーム』(01年SODセルシネマ)といエポックメイキングな作品もある。しかし──、

 先ほど高橋がなりと松本和彦による判りやすいジャンル分けがセルビデオに大きな改革を巻き起こしたと書いた。ただそれにはもちろん功もあれば罪もあり、AV女優すべてが「熟女」か「痴女」か、「巨乳」なのか「ロリータ」なのかという実に面白味の無いジャンルに分類されてしまったという側面もあった。女の子達は仕事が欲しいため、Aアイドルになりたいがために「私はセックスが好きなんです」「エッチな女の子です」「ザーメン飲めます」「潮吹きます」と判りやすいアピールだけを始めた。それらは気弱でオタクな青少年を優しくオナニーに導いてくれたかもしれないが、逆に言うとかつてのAV女優達の持っていたアナーキーで自由奔放な魅力から遠ざかることになった。

 そう考えていくと、林由美香だけはAVがセル=インディーズの時代になっても、どのジャンルに分類されることも無かった。逆に言えば彼女は最期まで林由美香という唯一無二のジャンルでしかなかったということになるのかもしれない。

 作家・村上龍は、日本社会は自分で「仕事を選び取る」というニュアンスを持っていないと発言している。例えば作家は「作家になる」のではなく、文壇という小説を仕事にしている世界に「選び取られる」ことによって小説家になるのだ、と。その意味で言えば、林由美香はアダルトビデオという職業を自ら選び取った、最後のAV女優だった。


※本稿執筆に際し、藤木TDC氏より貴重なアドバイスを頂戴しました。また、本文中にもあるファンサイト〈裏備のAV女優よろ図鑑〉を参考にさせて頂きました。) 

硬式ペナス〜林由美香 監督・カンパニー松尾

 九〇年代のアダルトビデオにおける最大の功績は、誰が何と言おうとカンパニー松尾平野勝之というとてつもない才能を輩出したことである。そんな二人に対し林由美香というひとりのAV女優が、まるで創造の女神の如く降臨したのは果たして偶然だったのだろうか?
 カンパニー松尾は「ハメ撮り」と呼ばれる映像スタイルを確立したとよく言われる。ハメ撮りとは決して単に「セックスしながらカメラを廻す」ことではない。また、観る者を「あたかもセックスしているような気持ちにさせる」ヴァーチャルな映像のことでも、ない。それは対象たる女性に、他者に、あるいは風景に対しても、自己の意思をカメラを通してぶつけるという方法論だ。つまり、一見他者を撮っているように見えて、その実自我の移ろいを写し取っているのである。
 セックスを撮るということに関してのみ語ってみるならば、松尾の映像は彼のペニスが挿入され乱れ狂っている女の姿を撮っているように一見して思えるものの、実は彼自身の興奮を撮ってるのだ。だから我々は彼の撮るものに興奮を覚える、ゆえに松尾の作品は常にAVとして一級品なのだ。そう考えていくと、初期にあった「松尾の作品には彼の心情を吐露するセンチメンタルなテロップが多すぎる」という批判が如何に的外れであったか判るだろう。松尾が撮りたかったのは女ではなく、女に相対する時の自分の気持ちだったのだ。そしてその手法は、平野勝之が自主映画時代から貫いて来た、一人称映像、そしてボストダイレクトシネマという方法論と不思議なほど良く似ていた。
 それでは何故、松尾はそのような方法論にたどり着いたのだろうか? それは、彼が誰よりも「AVの中でセックスする理由」についてこだわったからだ。カンパニー松尾は二十歳そこそこで当時まだ新興メーカーであったV&Rプランニングに入社、社長である安達かおるの助監督を長く務めた。初期V&Rにはよく言われるように「特殊男優」と呼ばれるAVに応募しない限り一生セックス出来ないような男達が集まり、同時に裸になって人前でセックスを見せない限りはとてもビデオには出演出来ないような最下層の「企画女優」と言われる女達が集まっていた。「単体女優なんてとても撮らせて貰えなかった」とは当時を振り返った松尾の弁だが、特殊男優達の息苦しいほどのセックスへの欲望の裏側では、例えば飯島愛に代表される単体スター女優達が気の無い疑似本番とゴム付きフェラで大ヒットを飛ばしていた現実があった。まだ若かった松尾青年が、そこに恐ろしいほど白々しい欺瞞性を感じ取っていたのは想像に難くない。
 1988年、カンパニー松尾は『あぶない放課後』というシリーズ企画を手がけることによって監督デビューする。これは学園を舞台にした少年の淡い恋心とセックスへの妄想をテーマにしたドラマ物だが、正直あまり成功したとは言い難い。この頃松尾は当時秋元ともみ作品等を手がけていた宇宙企画のさいとうまこと監督の強い影響を受けていたようだが、残念ながら彼にはさいとうのように少女に対する憧れや淡い性欲というものを一般化して描く能力がなかった。いや、一般化するにはあまりに白々しい欺瞞性に、疑問を抱いていたのかもしれない。そして、そんな松尾の前に現れたのが林由美香だった。
 松尾はシリーズ6作目『あぶない放課後6』で当時他社ではすでにAVアイドルとして人気が確立していた林由美香を起用する。V&Rもその頃になるとやっとのことで弱小メーカーと呼ばれることから脱しつつあったのだ。そしてその約2ヶ月後、彼は由美香にもう一度逢いたいという衝動だけで次回作を企画する。それが本作『硬式ペナス』である。しかしコレ、今観るとそうとう奇妙な作品である。松尾はインタビューと称して由美香に「何故君はAVに出るんだ。君みたいなイイ娘なら普通の職業だって出来るはずだ」とほとんど絡んでいるような発言をしているし、平本一穂他男優と由美香のセックスも非常に唐突で必然性が極端に薄い。おそらくそれは松尾なりに、アイドル林由美香の存在を単体作品としてユーザーに提供しようとしたのだろう。しかし前述したように、カンパニー松尾にはさいとうまことのように少女像を美しく作り上げ一般化する能力と資質が大きく欠けていた。だが、松尾は編集段階に来て突然、自分が林由美香に猛烈に恋をしている現実に気づく。つまりそこに来て初めて、彼は由美香のセックスを撮る理由に気づくのだ。本作は以下のような実に美しいテロップで始まる。
《初めて会った時、君は話の途中で席を立ち、髪形をかえて戻って来た。(中略)かわいくて、素直で、不器用で、楽しかった。たとえ君に彼氏がいたってかまうもんか、僕は、アイツにはゼッタイ出来ない告白の仕方を知ってるんだ。今、見せてあげるよ。》
 これが、カンパニー松尾林由美香という名の女神が降臨した瞬間であった。

ジーザス栗と栗鼠スーパースター〜林由美香 監督・安達かおる

 この暗さはいったい何なのだろう──?
 この文章を書くにあたり、おそらく10年以上ぶりに本作を観直した正直な感想である。とは言え、作品の内容的には決して陰惨なものではない。時に撮影が24時間以上ぶっ通しで続けられるという、いわゆる耐久セックス物ではあるのだが、チャプター的にはあまり笑えないコント様なものが続く艶笑的な作品でもある。
 監督の安達かおるはしばしば人間の本性を暴く作家と言われる。優秀な商社マンの家庭に育った彼は幼少時代を海外で過ごした帰国子女で、10才にも満たない頃イランで公開処刑を目撃してしまったことがその作風の原点であると言われている。しかし、と同時に少年時代それら異国の地で体験出来た映像はNHKとザ・ドリフターズの『8時だヨ!全員集合』のみで、硬派なドキュメンタリーを作ろうとしても何故かドリフのコント風になってしまうという説もある(笑)。
ジーザス栗と栗鼠スーパースター』、このダジャレにすらなっていないタイトルのシリーズ企画が生まれたキッカケは、カンパニー松尾・原作の青春回想録劇画『職業AV監督』(画・井浦秀夫秋田書店刊)によれば、とあるAV女優が発した何気ないひと言だったという。元々AVメーカーとしては新興で、安達以下スタッフ4人ほどでスタートしたV&Rプランニングはその規模の小ささから初期にはあまり有名な女優をキャスティングすることが出来なかった。だからこそNG事項の少ない企画AVギャルを起用しSMやスカトロ、果ては獣姦に至るまでアナーキーな作品を世に問うてきた。しかし松尾が入社した88年頃になりやっとのことで多少鮮度の落ちた単体アイドルなら撮れるようになってきた。その時に現れたのが一度引退し、再デビューした後藤沙貴という女優だった。そして面接時、「人間は決して建前通りキレイなものではない。本音や素が出た時がむしろ本当の姿なのだ」と持論を展開する安達に対し、後藤は「私は仕事で素なんて見せないよ、だってプロなんだから」と言い放った。そのひと言が安達の闘争心に火をつけ、特殊な性癖を持った素人男優達を次々とぶつける耐久セックスを強いて、女優から「お仕事」という仮面を剥ぎ取るという手法を生み出させたのである。
 シリーズ7本目に当たる、林由美香主演による本作も同様のスタイルによって作られている。飲尿、SM、イジメ、女装、ホモといった数々のマイノリティな性癖が、教師と女子高生、ナースと患者、浮浪者同士のセックス(由美香と男優・ライト柳田が顔に泥を塗りボロをまとい寸劇を繰り広げるというまさにドリフのコント!)といった短いチャプターで繰り返される。冒頭に書いた「暗さ」とはまさにそれだ。制作は90年春。世はまさにバブル絶頂期である。AVの世界でもあの村西とおるがダイヤモンド帝国を築き上げ、代々木上原に超高級億ションを購入。黒木香を筆頭に松坂希実子、沙羅樹、卑弥呼といったゴージャス女優達がヒラヒラのドレスを身にまといメディアに露出していた頃だ。しかしそんな時期にあっても、その虚飾をベリベリと引き剥がしてみれば、下には行き場の無い欲望がしっかりと渦巻いていたのだ。
 さて『ジーザス〜』のもうひとつの特徴は、そんな過酷で救いの無い性を無理やり押し通していくと、最後には異様とも思える開放感と爽やかな笑いに包まれるということだ。そういう意味で林由美香が体現していたのは、実はバブルもその崩壊の後も、やがてやってくるオウムや大震災の悲劇すらも軽々と乗り越えてしまう、強くて底抜けに明るいセックスそのものだったような気がする。