ラジオからはRCサクセションの『すべてはオールライト』が流れていた。

『漫想』というインディーズ・マガジンを作っているマスダユキさんと吉祥寺で会った。
 マスダさんと知り合ったのはちょっとしたきっかけからだった。僕がウェブに毎日書いている日記があって、それを読んだ読者の方が「あなたのことをネットで書いている人がいますよ」と教えてくれた。それがマスダさんのブログだった。読んでみると僕が5年前に出した『アダルトビデオジェネレーション』という本を「気持ちが弱くなるたびに繰り返し読んでいる」と書いてくれていた。
『アダルトビデオジェネレーション』は僕が十年近くに渡ってAV女優、男優、監督にインタビューしたものをまとめたものだ。それなりの自信はあったもののあまり売れず、悪いことに版元がすぐ潰れてしまったのであっという間に絶版になってしまった可哀想な本である。本は書き手にとっては子供のようなものだ。そんな不憫な子を繰り返し読んでいてくれる人がいる──そう思うと嬉しくなって突然失礼と思いつつメールを差し上げた。すると丁寧なお返事を頂き、『漫想』も送ってもらい、そうやってメールのやりとりをしているうちに「次号の『漫想』に何か書いてもらえませんか?」ということになってお会いしたというわけだ。
 駅前で待ち合わせをして南口の喫茶店に入り、気がつくと一時間以上話し込んでいた。
「やっぱりお仕事がら東良さんは人から話を聞くのがお上手ですね」マスダさんはそう言った。
 確かに、僕とマスダさんとでは歳が親子ほども違う。そんな二人が初対面にしては何のくったくも無くよくしゃべったと思う。
「それはきっと僕とマスダさんの波長が合うからですよ」と僕は言った。古くからの編集者は僕を“インタビューの下手なインタビュアー”と呼ぶ。
 駅前からバスで帰るというマスダさんと二人で北口までくるりと廻り、新宿側の改札のところで別れた。
「でもやっぱり話を聞くのお上手だと思いますよ」
 マスダさんは別れ際にも、もう一度そう言っていた。駅の階段を昇り、中央線を待っている時にも何となくその言葉が引っかかっていた。何故だろう? 電車が来て乗り込み、三つ先の地元の駅に着いた時にふと気づいた。そうだ、もうずいぶん昔に、沢村リリコがそう言ったのだ。
「トーラさん、女の子の話聞くの上手いよ。この仕事、向いてると思うよ」
 彼女はそう言っていた。沢村リリコは、僕が生まれて初めてインタビューというものをさせてもらった女の子だった。

                    ♠

 夏だった。ラジオからはRCサクセションの『すべてはオールライト』が流れていた。あれは何処で聴いたのだろう、稲村賢一の車のカーラジオだっただろうか。いや、違う。稲村はまだあの頃は車を持っていなかった。だから彼はカメラバッグを担ぎ、僕らは高田馬場の坂道を登ったのだ。稲村のカメラバッグの中には買ったばかりのニコンF3が入っていた。だけどレンズは24ミリと35ミリの広角二本だけだ。ノーパン喫茶や個室ヘルスの取材をするに標準や望遠レンズは必要なかったという理由もあるが、単にレンズを買う金が無かったからでもあった。その証拠に35ミリの方はその数分前まで〈ポルノ噴水〉で有名だった高田馬場駅前の質屋に入っていた。
「今日、35ミリ使わないっスよね」と稲村は小声で言い、僕は「イヤ、出して行こうよ。何があるかわかんないもん」と気弱に言った。稲村は風俗の取材写真以外を撮るのが初めてだったし、僕もインタビューなるものをするのが初めてだった。RCの『すべてはオールライト』は何処で聴いたのだろう。街角の何処かから流れて来たのだろうか。ただ、稲村が「キヨシローはいつだって最高ですよ」と言ったのが今でも耳の奥に残っている。確かに忌野清志郎が「すべてはオーライ」と唄えば、何もかもが上手く行くような気がした。たぶん、僕らはそれだけ若かったのだ。
 とても暑い夏だった。高田馬場の坂道を登り切ったところで左に入ると、白いコンクリートの壁が続く細い路地がある。右手にボーリング場の屋上にある巨大なピンのオブジェが見え、その先の神社を通り過ぎると蝉が盛大に鳴いた。そこから路地は急な上り坂になっている。頂上の横のコインランドリーの出口に、白い肩があらわになった黒いワンピースを着た沢村リリコが立っていた。長い髪の両脇をやはり黒いリボンで結んでいる。リリコは僕達を見つけると右手を頬の横まで上げ、ニギニギと手のひらを握って開いて笑った。沢村リリコは19才になったばかりだった。

 大学を卒業し何とかアルバイトでもぐり込んだエロ本出版社を半年で首になってしまい、続いて拾って貰った編集プロダクションは不渡りを出してツブれた。途方に暮れていたところにその編プロの下請け仕事で知り合っていた他社の編集長が仕事をくれた。
「ヌードモデルのインタビューをやってみたいのですが」と僕は編集長に言った。
 ちょうどアダルトビデオというものが作られ始めた頃で、だけどまだAVだとかAV女優という呼び方はなく、彼女達はヌードモデルと呼ばれていた。たいていが10代か20才そこそこで、モデルプロダクションとかに所属するわけでもなく、留守番電話一台で生きていた。今もそうだか当時も裏ビデオ裏本という非合法のモノがたくさんあり、隙あらば騙して出演させてやろうというヤクザまがいの男達と対等に張り合って生きていた。どの娘も皆、野良猫のようにカッコ良かった。この娘達の生き方を何とか残せないものか、そう思った。
 しかし僕がそれまでやってきたことと言えば原稿取りや雑用ばかりで、果たして自分の力でページが作れるのか不安だった。だけどその編プロ時代に知り合った稲村賢一という、同い年で妙に気の合う駆け出しの風俗カメラマンとなら、何とかやっていけるのではないか、そう思った。沢村リリコを最初のインタビューイに選んだのも、何人かの知り合いのヌードモデルの中で不慣れな僕達をうざったいと思ったりバカにしたりせず、いちばん優しく迎えてくれそうな娘だったからだ。そして、まさに彼女はそんな風に接してくれた。
 そもそも僕は写真を撮り終えたリリコに開口一番「インタビューって、何を聞けばイイと思う?」と訊いたのだ。今から考えるとまるで笑い話のようだが、リリコは少しも笑ったりせずに「そうだなあ──」と言った。「やっぱ、初めて付き合った男のコトとか訊くんじゃない? それから初体験とかの話にスルドク切り込んでいくんだよ、きっと」リリコはそんなふうに言って少しだけテレたようにはにかんだ。1DKのマンションだった。一階で陽当たりはあまり良くなく、クーラーも無かったように思う。リリコが冷蔵庫から麦茶を出してくれて、僕らはカーペットの上に思い思いの格好で座った。彼女のマンションはパティオ風の中庭を囲んだような作りで、夏の夕方の風がゆっくりと吹き抜けて行った。

                    ♠

 最初に付き合ったのはさあ、すっごいダサイんだけど雑誌の文通コーナーみたいなので知り合った男なんだよね。沢村リリコはそんな風に話し始めた。アタシって高校に入る前まではすっごい暗いコでさ、友達とかもあんましいなかったンだよね。だから本ばっかり読んでるようなコでね、だからその雑誌ってのも確か詩の本とかそんなんじゃなかったかな。忘れちゃったけどね。相手の男は10才くらい年上。だから当時26、7じゃないかな。そう、だから男の方も相当に暗い、アハハ。だってさ、その歳で「ボクと文通してください」なんて書くんだもん。でもイイ人だったよ。住んでる所もそれほど遠くじゃなかったから彼のアパート遊びに行ったりしてさ、お料理作ったりお洗濯してあげたりしたよ。彼のパンツ洗ってあげたりしてさ、なんか「ああ、コレってシアワセ」なんて思ったな。
 ふと気付くと、さっきまでリリコの横顔を撮っていた稲村賢一がベッドのヘリに頭をもたげさせた格好で、カメラを持ったまま眠っていた。
「──寝ちゃったね」
 リリコは小さな声で言った。
「昨夜もね、風俗の取材で朝まで歌舞伎町にいたんだよ」
 僕はそう言い、リリコと二人肩をすくめて声を出さずに笑った。
 昔、いつかこんな風景を見た気がした。こんな風に夏の夕暮れで、女友達のアパートに居て麦茶を飲んでいる。一緒に来た友達はいつの間にか眠ってしまい、女友達と僕はポツリポツリ話をしている。陽はずいぶんと翳って来たけれど、部屋の中はまだうっすらと明るい。そんな夏の夕方。
 でもね、その人とは一年も経たないうちに終わった。私がね、家を出ちゃったからなんだ。ウチ、両親離婚して母子家庭でさ、高校二年の時に母親が再婚したんだけど、何となく新しいお父さんと上手くいかなくてね。別に虐待されたとかそんなんじゃない。すごく良い人だったよ。たぶん、私の方が小学生の時に出て行った父親にこだわりがあったんじゃないかな。
 モデルになったキッカケは次に付き合った男なんだ。コイツが最悪なヤツでね。アタシ地元は千葉なんだけど、家出して新宿に住んでる女友達の部屋に転がり込んだ。そのコがロック好きなコでさ、バンドやってる男の子たくさん知っててそのうちの一人。背が高くて顔だけイイやつ。よくいるでしょ。私って迫られるとイヤって言えないんだよね。それでセックスしちゃって、相手は「もう俺の女だ」みたいに思ったんじゃないかな。彼の下北沢のアパートで暮らし始めた。私の方もね、住むトコないからっていう、そういうズルイとこあったと思う。付き合い始めたら好きになるかな、なんて・・・、ダメだったけどね。
「とにかく俺のライヴ観に来い」って言うのよ。「お前のために唄ってるんだ」とか言って。バカみたいでしょ? 私も下北のファミレスでバイト始めたぱかりだったンだけど、そんなのお構いなしなのよ。バイトなんか休め、バイトと俺のライヴとどっちが大切なんだって。それで無理やり連れて行かれるようになった。たぶん、バンドのライヴを見に行くようになってイヤになり始めたんだと思う。なんかね、ああ、この人カッコつけてるだけだって思っちゃったの。イヤ、カッコつけてるだけってのは少し言い過ぎかもしれない。あのね、ノッてくるとモノ壊したりするのよ。お店のテーブル放り投げたりギター壊したり。ひどい時なんかカミソリで自分の胸切っちゃったりするの。まだパンクとかが流行ってた頃だったからね。女の子達はけっこうキャーキャー言ってた。本人も「俺が本物のロックだ」みたいなこと言ってた。でもね、私は何だか恥ずかしかった。他のメンバーも同じようなヤツでさ、だけどライヴハウスってたいてい対バンがいるじゃない? そういう人達を観るとみんな一生懸命やってるの。下手でも何かを伝えようとしてるの。だけどソイツには誰かに伝えたいことなんてないの。彼らのバンドにはそういうのが無かった。それがわかっちゃったの。すごく人気はあったのよ。渋谷の屋根裏とか代々木のチョコレートシティとかでも満員になるの。彼の彼女だってわかると羨ましいとか言われた。
 でも違うのよ。彼はね、その場の空気みたいなものを読むのが天才的に上手いの。それは私にもハッキリとわかったの。演奏していると観ているみんなの中に何かが溜まっていくの。何ンていうかそれは、例えば透明なコップに水が溢れそうになるようにね。彼はね、それをどちらに傾ければより多くの水が溢れるかわかっているの。倒して溢れさせてやるとある種の女の子達は熱狂するの。そして時にはそのコップを叩き割ってやることもするの。そう、ギターを壊したり身体を傷つけたり。そういうのが気持ちイイと思ってる人がいるってわかりきっているの。でも私はそういうのヘンだと思った。私はロックとかよくわかんないけど、そんなの嘘だって思ったの。少なくとも、私はそんな生き方イヤだ。そう思った。だから色々と理由をくっつけてライヴに行かないようにしてたんだ。
 夏だった。今日みたいにすごく暑い夏の日だった。その日も彼のライヴのある日で、早番で入ってたファミレスにも何度も電話が入ってた。たぶん、何かクスリをキメてたんだと思う。すごいテンションで「お前今夜は絶対に来いよな、最高のステージ見せてやるからな」とか息巻いてた。何かとても嫌な予感がした。私が行ったら何かとんでもないことが起こるような。あまりに何度もしつこく電話が入るから、店長も変だと思ったのね。どうしたのって訊いてきて、私、事情を説明して今日は遅番の方にも入れてもらえませんかってお願いしたの。それを口実に断りますからって。店長わかってくれて、じゃあ昼間に二時間休憩あげるからいったん帰って休んでおいでって言ってくれたの。

 それでアパートに一度帰ったの。階段を昇って部屋に入ろうとしたら「お嬢」って呼ばれた。隣に病気のおじいさんが一人で住んでたの。その人、必ず私を「お嬢」って呼んだんだ。若い頃は浅草で鳶の職人さんだったんだって。たぶん古い職人さんの言葉なのね。私ね、そのおじいさんと何だか気が合ってたの。もうかなりのお歳なんだけど、なんていうかカッコイイの。肺の病気だとかでほとんど寝てばかりなんだけど少しも汚い感じがしなくて、年中浴衣みたいな寝間着でいるんだけどすごくいなせでね。お部屋にも何度か上げてもらったんだけどとてもキレイにしてる、そんなおじいさん。ただ身よりが無くてお金も無いから入院は出来ないんだって言ってた。
 見ると隣のドアからそのおじいさんが顔を出して笑ってた。手にね、メロンの入った木箱を持ってたの。
「今日、昔の職人仲間がお見舞いに来て貰ったんだ」って言ってた。
 何ンか、私、あんなに嬉しそうなおじいさんの顔見たの初めてだった。
「お嬢、あたし一人じゃ食べ切れないから一緒に食べないか」って。
 でもさ、今日みたいな真夏の暑い日でしょ、メロンそのまま切って食べたってぬるくて美味しくないよ。だって箱に入ったすっごく高そうなマスクメロンなんだよ。もったいないじゃない。でもおじいさんの部屋にもウチにも冷蔵庫ないし。そこでハッと気づいたんだ。
「ねっ、おじいちゃん、アタシ今日は遅番もバイト入るから、ファミレスの冷蔵庫で夜まで冷やしてもらおうよ。八時には終わるからそれからお部屋で一緒に食べよう」って。
 おじいさん、「うんうん、そうしよう。楽しみだね」って言ってた。すごく嬉しそうに。
 ファミレスからアパートまでは歩いて20分かかったけれど、急ぎ足で帰れば15分くらいで戻れるだろう。そうすれば8時半前にはおじいさんと一緒に冷たいメロンが食べられる。そう思うと嬉しくて嬉しくて仕方なかった。でも、そうはならなかったんだ──。

 五時過ぎにファミレスに電話が入った。最初に居候させてもらってた新宿に住んでる女の子からだった。彼女は私の付き合ってる男のバンドのベースの子と付き合ってたんだ。「どうして来ないの」って。彼が、私が来ないんなら今日はステージやらないってゴネてるんだって。そんなこと言ったってもうバイトに入ってるんだから無理だよ。そう言ったんだけど今度はそのベースの子に代わって、「お前ふざけんなよ、バイトなんかバックレて来いよ」ってムチャなこと言うし、そのうち女の子の方は泣き出しちゃうし。
「彼はどうして君にそんなにこだわったんだろう?」
 僕は聞いた。
 どうしてかな。たぶん、私が彼にとって初めて自由にならない女だったからだと思う。後からわかったんだけど彼は熱海のけっこう大きなホテルの息子だったんだよね。何不自由なく育ったんじゃないかな。顔が良かったから高校生の頃から女にはもてまくってたみたいだし。バンドのメンバーと東京に行こうって話になって、でも親が許さないから家出して下北に住んでたみたいなんだよね。その後も女友達の方から二度くらい電話があった。泣きながら「とにかく来て」って。でも、私その時に気づいたんだよ。私にとっては今このファミレスでバイトすることが何より大事なんだって。男と付き合うとかセックスするとか、彼氏のライブに行くとか、そんなことよりもこうして食べ物運んだり珈琲のお代わり入れたりお客さんが食べ終わったお皿片づけたりする方がずっとずっと大切なんだって。私はこうして生きていくんだって思った。誰が何と言おうと、それがどんなにつまらない人生であろうとこうやっていくんだって──。でも、だめだった。
 六時半にその女友達が店まで来ちゃったんだ。ボロボロに泣いてて眼にアザ作ってた。言わなかったけどそのベースの彼氏に殴られたんだなってのはわかった。とにかく私を連れて来いって言われてバイト先まで来たみたいだった。もうだめだなって思った。私が行かないとこの娘と彼の仲もだめンなるなって思った。彼女には私が家出した時本当に世話になったから、その娘を裏切るわけにはいかなかったんだよ。店長にはもう何も言えなかった。これはもうバックレるしかないんだなって思った。だからファミレスの制服のまま裏口からそっと出たんだ。心の中で何度も何度もごめんなさいって言った。
 明大前のライヴハウスだった。パチンコ屋の2階にある狭い所だった。中に入るとすごいことになってた。私が見に行ってない間にそのバンドは前よりずっと人気が上がってたみたいなんだ。なのにそんな狭いハコで演ってたからお客さんは何だか余計にエキサイトしてた。もう酸欠になりそうな超満員で、みんなアレ、なんて言うの、ヘッドバンキングだっけ? 頭を激しく振ってて、ステージに登ってダイブする男の子とかもたくさんいたし、何だよ、別にアタシが来なくても良かったじゃんって思った。ライブは盛り上がってたし満員だし、だいいち私なんか背が低いから後ろにいたらステージさえ見えないんだよ。私がいようがいまいが関係ないじゃん。今なら帰れるって思った。今ファミレスに帰れば、そして店長にごめんなさいって何度も言えばムチャクチャ怒られるだろうけど許してもらえるかも、そう思った。
 でもその時、狂ったみたいに身体を動かしてるお客さんの隙間から、何故かステージが見えたんだ。それは今思い出しても本当に不思議なんだ。まるで海がスーッと二つに割れるみたいにさ、いちばん後ろに立ってた私とステージの間一本の筋が出来たんだ。そして彼と眼が合った。彼はハッキリと私を見た。その時の眼はね、たぶん私、一生忘れないと思う。彼、弾いてたギターを頭の上まで持ち上げた。ああ、やるなって思った。またコップを叩き割るんだ。もうみんなのコップには水が溢れそうになるまで溜まってる。そしてギターを床に叩きつけた時、ライブハウス全体がすごい悲鳴を上げたみたいになった。それはまるで渦のようだったよ。そいつはまるで生き物みたいに酸欠状態の、ギュウギュウ詰めの人の中をまるで膨れあがった見えない大きな風船みたいになってグルグル廻ったんだ。その時だった、彼がその見えない大きな渦のようなものに巻き込まれて、ステージ横の壁へ全速力で駆け出して激突したんだ。私には彼が渦に巻き込まれて吹き飛ばされたように見えた。そして、そこは実は壁じゃなかったんだ。黒い紙で遮蔽されてたけれどガラスの窓だったんだ。彼の身体はその2階の窓を破って落ちて、下のパチンコ屋前の舗道に激突した。

                    ♠

 それから後のことはあまり良く憶えていないんだ。ライヴハウスの人が警察を呼んだからメンバーは事情聴取されて、だから私が救急車に乗って彼と病院に行った。大腿部骨折と脳挫傷だったかな。たぶん腰から落ちてから頭を打ったんだね。やっぱり何か変なクスリはキメてたらしい。それでブッ飛んでしまって2階からダイブしてしまったんだろうって他の人は言ってた。たぶんあの渦みたいなものは私にしか見えなかったんだと思う。あれはみんなの中に溜まってた水が一気に溢れて洪水のようになったんだ。彼はそれに巻き込まれて溺れるように2階から落ちたんだよ。でもそれは誰にも言わなかったけどね。
 幸い生死に支障はなかったんだけど完全看護の病院じゃなかったから私が3日間面倒を見なきゃならなかった。そう、その間はアパートにも帰れず、だからずっとファミレスの制服のまま。お医者さんは意識はあると言ってたけど話は出来る状態じゃなかったね。だからいまだに彼が自分の意思で飛んだのかそれとも何かに押されて落ちたのかはわからないんだ。3日目に熱海のお母さんってのが上京して来て、半狂乱になって色々言われた。あんたみたいな女と一緒にいるからこんなことになるんだとか、この子はあんたに騙されたんだとか、あんたのおかげてこんなひどい眼に遭ったんだとか色々ね。それでお医者さんはとても動かせる状態じゃないって言ったんだけど強引に熱海に連れて帰った。実家のホテルの専務っていう人が一緒に来ていて、何故か5万円くれた。アパートの方は引き払ったからこのお金でしばらくは何とかしろみたいな意味だったのかもしれない。
 彼を乗せた救急車が出て行って、専務っていう人も帰って、しばらく病院の前庭のベンチに座ってた。私は相変わらずファミレスの制服のままだった。これからどうしようって思った。バイトはもう絶対にクビに決まってる。いきなり何も言わずに抜け出してそのうえ3日もバックレたんだもんね。泣きたかったけど涙も出なかった。でも、その時になってやっと思い出したんだよ。そうだ、メロン食べようっておじいさんと約束したんじゃないか。ファミレスの冷蔵庫の中で、メロン冷やしてたんじゃないかって。もうファミレスには帰れない。でもあのおじいさんだけには謝ろう、事情を説明しよう、それだけはしなくちゃいけない。それに、おじいさんだったらきっとわかってくれる。お嬢、それは大変だったねえ、メロンのことはもういいよって、そう優しく言ってくれると思ったんだ。
「でもね」と沢村リリコは言った。
「結論から言うとおじいさんには会えなかったんだ」
「──どういうこと?」
 と僕は訊いた。
 部屋には西陽が射し込み、それが麦茶のコップを置いたカーペットに伸びていた。

 沢村リリコが彼と暮らしたアパートに行くと、ドアの外に小さな段ボール箱が置かれ、その中に彼女の洋服やら数少ない持ち物が放り込まれていた。たぶん、部屋を引き払った例の専務とかホテルの社員とが置いたのだろう。沢村リリコはその段ボール箱を抱え上げておじいさんの部屋をノックした。その時、あれ、いつかもこうやって何かを抱えておじいさんの部屋を訊ねたことがあるような気がするな、彼女は何故かそう思ったと言う。遠い遠い昔に同じことをしたような。いや、でもそれはあの日、メロンの木箱を抱えてこの部屋から出て行ったのと記憶を混同しているのかもしれない。
 もう一度ノックしても返事はなかった。ドアノブを廻すとカチャリと開いた。部屋の中には誰もいなかった。小さなタンスも、おじいさんがいつも寝ていた布団もなく、押入も開け放たれて空っぽだった。ただ四畳半の畳が敷かれた、誰も住んでいない部屋がそこにはあった。
「何があったんだろう」
 僕は言った。
「わからない。もう一つ隣の部屋に大学生の男の子が住んでたから訊いてみた。夜中に引っ越していったみたいだよってその子は言ってた。だけどそれって私達の方の部屋の物音だったかもしれないじゃない。だいいち、おじいさんは身寄りもいないしお金もなかったんだよ。生活保護受けて時々民生委員のオバサンが来る、そんな人だよ。引っ越しなんて出来るはずないんだ」
 僕は心の中に浮かんだあまり良くない予感を口にしてみた。
「おじいさん、死んでしまったってことは考えられないかな?」
 沢村リリコはすぐには答えなかった。何も言わずに自分の足先を見ていた。爪には赤いペディキュアが塗られていた。
「そうかもしれない」沢村リリコは言った。
「でもそれはわからないんだよ。彼が何故ライヴハウスの窓から落ちたのかと同じように、私には一生かかってもわからないことなんだ。ただ、ひとつだけ確かなのは、おじいさんが消えてしまったてことだよ。少なくとも私の前からは、きれいさっぱりと消えてなくなってしまったということなんだ──」

 この娘は、何故こんなことを僕に話してくれるのだろうと思っていた。僕は沢村リリコの恋人でも親しい友達でもない。仕事仲間と言ったって、2度ほど撮影をしただけだ。安いギャラだった。確か1万円だったと思う。写真を撮ってこうして部屋まで上がり込ませてもらって1万円だ。彼女には、僕にこんな身の上話をしてくれる理由なんて何もない。その時だった。沢村リリコが言ったのは。
「トーラさん、この仕事向いてるよ」
 もう夕陽はずいぶん翳ってしまい、彼女の表情は読みとれなかった。
「女の子の話聞くの上手だと思うよ。編集よりもこういうのやった方が良いんじゃないかな。モデルの娘の話聞いて文章にするの」
 沢村リリコはワンピースの肩ひものところを両手でもてあそんでいた。窓ガラスに反射したかすかな夕陽がそこだけを明るく映し出していた。
「どうしてそう思うの?」
 僕は訊いた。
「わかんないけどね」
 しばらくしてから彼女はそう言った。すっかり暗くなってしまった部屋で、沢村リリコは少し笑ったようにも見えた。
「時々思うんだ。あの時ファミレスの仕事をバックレたりせずに、おじいさんと一緒にメロンを食べてたらどうなっていただろうって。そうしたら彼は窓から落ちたりしなかったし、おじいさんは消えて無くなったりしなかったんじゃないかって。ただね、ひとつだけどうしてもわからないことがあるんだ。それをいつも考えていた。それがね、トーラさんにこうやってしゃべったらわかるんじゃないか、何となくそう思ったんだよね」
「──何が」と僕は言った。
「何がわからないの?」と。
「私はどうなっていたんだろうっていうこと。彼が大怪我をせず、おじいさんがいなくならなかったとしたら、私はどうなっていたんだろう? それだけが、何度考えてみてもわからないんだよね」

                    ♠

 沢村リリコは消えて無くなってしまったおじいさんのアパートを出た後、ホテルの専務からもらった五万円をファミレスの制服のポケットに入れ、部屋の前に放り出されていた段ボール箱を抱えてあてもなく街を歩いたという。気が付いた時には池袋にいて、当時流行り始めていたノーパン喫茶の呼び込みの男に声をかけられそこで働くようになった。店が従業員寮と称するワンルームマンションを持っていたからだ。店で働くうちに客で来ていたヌードグラビア専門のカメラマンにスカウトされモデルになった。
 あれからもう何年経ったんだろう。沢村リリコはその後も二年ほどヌードモデルを続け、終わりかけのにっかつロマンポルノなどにも出て小さいけれどそこそこ良い役をもらったりしていた。ただ、僕はそれ以来何故か彼女と仕事をする機会を得られなかった。数年後、そういうロマンポルノだかピンク映画だかのプロデューサーをしている人と結婚したと聞いた。ただ、しばらくしてその御主人になった人が自殺してしまったという噂が流れた。真偽のほどはわからない。単なる風の噂で本当は何処かで幸せに暮らしているのかもしれない。どちらにせよ、沢村リリコは僕のいる世界からは消えてしまったのかもしれない。あの日彼女の前からおじいさんが消えて無くなってしまったように。

 僕は今でも時々、沢村リリコがおじいさんと一緒にメロンを食べていたらどうなっていただろうと考えてみる。この世界の何処かに、そんな「もしも」の街があるんじゃないか。そこではいまだに沢村リリコがファミレスの制服を着て、元気に食べ物を運んだり珈琲のお代わりを入れて廻ったりしてる。そしてラジオからはRCサクセションが流れ、清志郎は「すべてはオールライト」と唄っている。〈了〉
 


(2006年3月11日発行『漫想』NO.3所収。「ラジオからはRCサクセションの『すべてはオールライト』が流れていた。」に一部加筆訂正)

井口昇『恋する幼虫』〜少年の日に抱いた憧憬とその裏側に存在する不気味なダークサイド──、

恋する幼虫 [DVD]

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「アダルトビデオを作り続けるということは、少年の頃に抱いていた無力さや恐怖から逃げることなく立ち向かい戦い続けるという事ではないか? これは此処数年僕がカンパニー松尾平野勝之、さらには彼らより若い井口昇といった疾走するAV監督達から学んだささやかなテーゼである──」

 これは僕が九〇年代後半、井口昇に関して書いた文章の一節だ。本稿に与えられたテーマはAV監督としての井口昇が、如何にしてこの『恋する幼虫』という劇場公開用傑作映画に辿り着いたか、である。しかしその前に、貴方はアダルトビデオというものを観たことがあるだろうか、そしてどんな印象をお持ちだろうか。男女のセックスを安直に描く、ただ劣情を刺激するだけの下品で陳腐で観る価値の無いものと捉えてはいないだろうか? でも、残念ながらそれは正しい。ビデ倫メディ倫といった大手審査機関を通しただけでも一説には年間数千タイトルを超えると言われている膨大な作品群の、その大部分はクズである。しかしその中にほんの一部、とてつもない映像的才能を持った人々がいる。井口昇はそんな中の一人だ。彼の他にも井口の兄のような存在で、8ミリビデオカメラ片手にたった一人で『白〜The White』という強烈な劇場公開映画を撮ってしまった平野勝之、井口の師であり本作にもヒロインの上司(編集長)役で登場し並々ならぬ存在感を示している高槻彰、庵野秀明に強い影響を与えたと言われるカンパニー松尾バクシーシ山下、さらに井口より若い世代にはインジャン古河という先行き恐ろしいような才能もいる。

 では何故時にアダルトビデオの中にそう言った才能が生まれるのだろうか? それはAVというものがその低予算を余儀なくされる状況から自ずと手工業的制作過程を経ることにより、性の対象たる女性や自らの欲望、さらには自分自身の存在にまで、正面から対峙させられることをアプリオリに運命づけられているからだ。もちろん安かろう悪かろう経済効率に寄って立ったオトナ的な制作姿勢でAVを作ることは出来る。しかしそんな風に自らの欲望から眼を逸らしてしまった途端、そのAVはユーザーにとってリアルさを欠いた、“ただ男女のセックスを写しただけ”の意味のない映像に成り下がってしまう。先にそのほとんどがクズだと書いた意味はそこだ。

 そんな中で井口昇は決して安直にオトナになろうとはせずに、自らの欲望に立ち向かい続けているAV作家の一人である。けれど──そんな風にくだらない大人に成り下がることなく、少年のような気持で女性やセックスに対して欲望すること、憧れ続けること、それは同時に大いなる恐怖に晒されることにもなる。逆に言えば、我々は大人になるにしたがって傷つかなくなる術を憶え小器用になる。社会や他者に対し、ひたすら無力なまま怯えていた少年の日々を忘れ去ってしまうのだ。しかしそれと引き替えに我々は可憐なものや美しいものへの憧れをも忘れてしまう。何故なら我々が可憐だと思っていた少女達や美しいと信じて疑わなかった未来とは、同時に悪魔のようなダークサイドを孕んでいたからだ。本作『恋する幼虫』に於いて新井亜樹乾貴美子の見せる、美しさと可憐さの裏側にあるどうしようもない不気味さとグロテスクさを見れば判るだろう。

 また、もう一つ近年のアダルトビデオにおいて特出すべき点は、他の映像メディアに先駆けて8ミリビデオカメラやDVカムといった小型カメラの持つ可能性を拡大したという事だろう。高槻彰らが好んで行う対象人物の内面にまで切り込んでいく手法、カンパニー松尾が確立したハメ撮り(1対1でセックスしながら撮影する)といった方法論に、小型カメラは必要不可欠であり、逆に言えば小型カメラというハードをより自由に扱うことでAVは進化したのだ。全編8ミリビデオカメラによる平野勝之の初の劇場公開映画『由美香』が、DVテープを35ミリにブローアップしたジム・ジャームッシュの『イヤー・オブ・ザ・ホース』と同年(97年)に制作されたことから見ても、日本のAVのある一部が、どれだけ世界と同時代性を共有しているかが理解出来るだろう。

 そして井口昇によるこの『恋する幼虫』もまた、ソニーのDSR-PD150という小型DVカムで全編撮影されている。これは彼が普段AV作品を撮るのと同じかもしくは同様のカメラだ。つまりここで最も大切なことは、井口の中でAVと映画というものが常に同列であるということだ。そもそも彼が98年、新井亜樹唯野未歩子を主演に切ないほどに美しくも残酷な自主映画『クルシメさん』を撮ったその動機は、「AVだとエロスを表現するのに直接的な性行為を描かねばならないから──」というものであった。つまり井口は映画に於いて、性行為を抜きにしてAV以上に猥褻な作品を撮りたかったのだ。

 どちらにせよ、家庭用DVカムで撮影され自宅のデスクトップ上でノンリニア編集された映画が劇場で公開される時代になった。この時に最も必要とされるのは何よりも純粋な才能だろう。だけど才能って何だろう? それは美しさや可憐さに深い憧憬を抱きながら、それの持つ悪魔のようなダークサイドに脅えない毅然とした姿勢だ。井口昇の映像は今、誰よりも切実に世界に繋がり呼びかけている。
 
(2003年『恋する幼虫』劇場用パンフレット所収、「AV監督、そして映画監督としての井口昇」より)
 
 
【追記】井口昇はこの後、2005年に『猫目小僧』(原作・梅図かずお。出演・石田未来竹中直人、他)、翌06年には、『卍』(原作・谷崎潤一郎。出演・秋桜子、荒川良々野村宏伸、他)を発表。2007年には米国メディアブラスターズ社製作によるスプラッター映画『片腕マシンガール』が、YouTubeにアップされた予告編が100万ヒットを記録したこともあり話題となる。現在は2009年劇場公開予定の『ロボ芸者(仮題)』を撮影中。
 
※映画監督・井口昇OFFICIAL BLOG井口昇の「きっと男子ばっかり見るだろうから敢えて言うけど女の子集まれ!」←はコチラ。

片腕マシンガール【初回限定生産 】 [DVD2枚組 ]

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クルシメさん/アトピー刑事 愛の井口昇劇場 1988-2003 [DVD]

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猫目小僧 [DVD]

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KUWATA BAND〜ぶわんざい、頑張れっ、桑田佳祐!

 ロックンロールのBGM化につれ、第二のGSブームなどと言われている中、『ミューシックマガジン』誌上において久々の論争を巻き起こしたのかこの、我らが桑田佳祐率いる“NIPPON NO ROCK BAND”こと「KUWATA BAND」(以下、クワタバンドと表記)である。
「俺たちが憧れたクラプトンもグランドファンク英語で唄ってたから、俺も英語で唄いたかった」というのが桑田の言い分であり、「全曲英語で唄われたアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』には“ロック”が感じられない。少なくとも日本語で唄われたシングル、そしてサザンに於ける桑田のサウンドの方がロックだった──」というのが評論家・藤田正の意見だった。
 此処でいう藤田の“ロック”なる言葉は、桑田が英語で唄うことに関して影響を受けたというアン・ルイスの「所詮、日本語て唄ってる限り歌謡曲てあり芸能界なのよ」という言葉を受けたものであると想像される。
 確かに「スキップ・ビート」「メリーXマス・イン・サマー」と立て続けにヒットを飛ばしたクワタバンドとしては、そのアルバムは多少インパクトに欠けたものだったかもしれない。僕個人の感想としては、サザンやクワタバンドのシングルに比べると心に引っかかる部分は少ないものの、ただただ気持ちの良い音楽という印象だった。
 さて──、今回リリースされたヴィデオ『ONE DAY KUWATA BAND~ROCK CONCERT』の話である。テープ、レーザー、VHDの三種が発売されていて、テープとディスクとではバージョンが違う。今回僕が観たのは90分のロング・バージョン(ディスク)の方だが、出来ればそちらの方をお薦めしたい。何故ならそこでは、LP『NIPPON NO ROCK BAND』が全曲演奏されているからであり、桑田佳祐は件の論争にキッチリと、彼なりの答えを出しているからである。
 リトル・フィートやレイドバック以降のエリック・クラプトンに刺激され、それらの音楽性に日本語を乗っけることによりひたすら和製アメリカンロック・バンドであり続けた“サザン”の桑田が、ブリティッシュサウンドをも自らの中に見出したのがクワタバンドである。オープニングの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」や、ディープ・パープル風にアレンジされた「風に吹かれて」が、その表れだ。
 桑田佳祐と同世代の僕には、そんな彼のメンタリティが良く判ると言わせて貰いたいし、このライヴに於ける彼らのサウンドは、何語で唄われようとアメリカでもイギリスのそれではなく、まさにニッポンのロックバンドの音だからだ。ぶわんざい*1、頑張れっ、桑田佳祐、クワタバンド!
 
(『ビデオ・ザ・ワールド』白夜書房刊、1987年月号不明。コラム「VIDEO CITY」より。)

【追記】さすがに22年も前の文章になると、「テープ、レーザー、VHDの三種が発売されていて──」なんて箇所に時代を感じざるをえない。VHDなんて、今知っている人はいないのではないか? ビクターが中心となって開発したビデオディスクである。アナログレコードのように針を使って再生するという何とも間抜けな方式(関係者の皆さん、すみません。涙)で、レーザーに押されアッという間に姿を消した。それに「VHS」と書かずに「テープ」と書いているのは、ソニーのベータもしっかり存在していた時代だからだ。現在はAV専門誌になっている『ビデオ・ザ・ワールド』も、まだビデオソフト全体のリリース本数が少なかったため、一般作の紹介もしていた。「VIDEO CITY」はそんなコラムページである。執筆者は他に高杉弾青山正明永山薫、山本勝之、藤木ただし(現・藤木TDC)他──と書いて、故人が二人いることに気づいた。また、本文中「ヴィデオ」と書いているが、当時は「VIDEO」をどうカタカナ表記するかはさほど統一されておらず、半数以上のライターが「ヴィデオ」としていた記憶がある。それと、本文をアップするのにあたりGoogleで検索してみると「桑田バンドって何ですか?」「サザンの桑田さんのやっていた“KUWATA BAND”というグループについて教えてください」という質問がネット上に幾つかあった。若い人が知らないのも無理はない。Wikipediaには「桑田の妻である原由子が産休中である1986年4月から1年限定で活動した」と説明されている。

NIPPON NO ROCK BAND

NIPPON NO ROCK BAND

ROCK CONCERT

ROCK CONCERT

スキップ・ビート

スキップ・ビート

MERRY X’MAS IN SUMMER

MERRY X’MAS IN SUMMER

*1:「ぶわんざい=万歳」は、『ONE DAY KUWATA BAND~ROCK CONCERT』の中、桑田佳祐がライヴMCで何度もシャウトするフレーズ。

TVドラマの時代、再見〜倉本聰と“深い感動”(1)

 ある夜更け、十数年振りに高校時代の友達から電話があった。
「不思議だな。こうやって話してると、まるで卒業してからの二十年が何処かにすっ飛んで消えたみたいだ。なあ、そう思わないか?」
 友達は少し酒に酔っているのか、不思議だな、と何度も繰り返した。
「22ルームの頃はさ──」と彼は言った。僕らの通った高校ではクラスをそう呼ぶ伝統があったのだ。一年二組は12ルーム、二年二組なら22ルームと。僕は、そんなことすら忘れていた。
 電話が切れてから、何気なく22ルームの友達の名前を出席番号順に口に出してみて驚いた。
「青木、渥美、安部、阿部、岩木、植田、加藤、金子、香山、河上、小山・・・」
 驚いたことに男子生徒21人の名前がスラスラと溢れ出てしまった。二十年間、思いだそうとしたことすらなかったのに、である。
 その翌日にたまたま観たのが倉本聰脚本、杉田成道演出によるフジテレビ系列のドラマスペシャル『町』だったから、これは少しマイッてしまった。要するに、正直に白状するとナミダが出て仕方なかったのですね。
 
 七〇年代──つまりは僕が高校生だった頃──それはまさにテレビドラマの時代であった。倉本聰の『6羽のかもめ』『前略おふくろ様』『たとえば愛』、山田太一では『それぞれの秋』『男たちの旅路』『岸辺のアルバム』。そして向田邦子の『冬の運動会』、ああ、こう書き出すだけで胸が詰まる。それだけじゃない、以上はVTRによるドラマだが、フィルム撮り(当時は“テレビ映画”と呼んでいた。今や死語だ)ならショーケン、水谷豊主演の『傷だらけの天使』、やはり萩原健一主演の『祭りばやしが聞こえる』ではまだ無名だった柳ジョージが主題歌を唄っていた(現在AV監督・男優として活躍する清水大敬*1氏が共演していた!)松田優作主演の『探偵物語』、中村雅俊主演の『俺たちの旅』、優作・雅俊共演の『俺達の勲章』なんてのもあった。そしてまだまだ元気の良かった頃の『太陽にほえろ』などなど──。
 
 先に挙げた倉本聰によるドラマスペシャル『町』の中で、西村雅彦演じるTVプロデューサーが杉浦直樹扮する盛りの過ぎた初老脚本家にこう語るシーンがある。
「中高年に向けたドラマなんて誰も観やしません。テレビドラマは若者と主婦層のためにあるんです。僕だって学生時代、あなたのドラマが放送される日は飛んで帰って観たものです」と。
 確かに我々もそうだった。朝、眠い眼で高校に向かう道すがら、何だってあんなにも熱っぽく昨夜観たTVドラマの話をしなければならなかったのだろう。結局の所、我々もTVドラマもまた若かったという事だろうか。それとも今の若いコ達もまた『ラブジェネレーション』や『成田離婚』のことを通学途中に夢中になって話すのだろうか?
 杉浦直樹演じる落ちぶれた初老の脚本家はそんな疑問に、このような独白で答える。
「彼はある時期から私と袂を分かち、若手の脚本家と組んんでニュー・ウェイヴと呼ばれるヒット作を次々と世に送り出した。そこには如何にも若者の欲する都会の情報がこれでもかと満載されていた。涙も笑いもふんだんにあったように思う。だから彼の作品は視聴率を稼ぎ多くのアイドルを生み出した。しかしその涙と笑いとは常に一過性のものではなかっただろうか? 少なくとも、深い感動とは無縁のようであった気がする──」と。

 演出の杉田成道はそこに躊躇なく『101回目のプロポーズ』を始めとするフジ制作ドラマのスチールを挟み込んでいく。老脚本家の言う“ニュー・ウェイヴ”が“トレンディ・ドラマ”の言い替えであることは間違いなく、プロデューサー役に西村雅彦(このワンシーンにしか出てこない!)をキャスティングしたことから見ても、彼が組んだ若い作家というのが三谷幸喜を始めとする世代の隠喩であることは間違いない。しかし“深い感動”とは何だろう? 少なくとも僕個人はここ数年やたら冗長になってゆく倉本+杉田による『北の国から』の単発スペシャルには乗り切れないで、いた。
 
 さて、ここまでは実は長いマクラである。七〇年代の倉本聰作品については来月もう少し深く突っ込んでみたい。しばしお付き合い願いたい。
 ところで先程「たまたま翌日に倉本作品『町』を観た」書いたが──実は嘘なのです(涙)。本当はビデオに撮っておいて放ったらかしにしてたものを件の友達の電話で思い出し、ヨーシ今夜はいっちょう泣いてやろうじゃないの、と似合いもしないバーボンのグラスなんぞを傾けながら観たのだ。幸い倉本聰山田太一クラスのシナリオはほとんどが単行本化され時を選ばず読むことが出来る。ビデオ化されているものも少なくない。つまり「昔は良かった」という言葉では誤魔化し切れない時代になったのだ。実は今こそ一過性の芸術であったTVドラマが評論分析される時である。21世紀は、そんな時代になるのが望ましいとはずだ。

(『URECCOミリオン出版刊、1997年月号不明。コラム「微熱で行こう!」より。)

*1:清水大敬氏は賀原夏子主宰の劇団NLT出身。黒澤明監督作『影武者』にも出演した。当時の芸名は清水のぼる。上記にリンクした『祭りばやしが聞こえる』でも、そのクレジットが確認出来る。

TVドラマの時代、再見〜倉本聰と“深い感動”(2)

「エート、ここにビールのジョッキがありますけど、コレを人生にたとえますとね。これ今たまたま底から三分目くらいしか残ってないけど、要するにこの飲み干しちゃった七分目くらいまでが青春なのね。で、コノ青春てやつはひどく辛いんですよ。ただこの人生残りが見えちゃったあたりで青春は終わってホッと楽になるわけ。僕の場合、最近やっと楽になれて、それで人生楽しく、こうやって映画を撮って暮らせるようになったト──」
 伊丹十三氏の言葉である。確か『タンポポ』か『マルサの女』制作時、TV番組におけるコメントだ。記憶に頼っているから正確ではないかもしれない。
 ただ、ここ十年ほど、僕はことあるごとにこの言葉を頭の中で繰り返してきた。
何故なら十代の頃、漠然とこの苦しみは二十代になれば終わるだろうと思っていたからである。そして二十代の頃はこう思っていた。まっ、三十過ぎれば何とかなるだろう、と。

「ムラカミハルキなんて作家の本が何で売れるんでしょうね?」
 ある日、作家志望だという若い編集者から、こう言われたことがある。春樹さんのファンである僕は突然のことに首をひねった。ついでに言葉も詰まった。
「どうし、て?」
「だって、小説の中であんなに簡単に人を殺していいモンですかね」
 口には出さなかったけど、果たしてそうだろうか? と僕は思った。
 人間なんてあっけなく突然、唐突に、そして簡単に死んでしまうものではないだろうか?
 
「しかしその涙と笑いとは常に一過性のものではなかっただろうか? 少なくとも、深い感動とは無縁のようであった気がする──」
 フジテレビ系列で年末に放送されたドラマ『町』の主人公・落ちぶれた初老の脚本家はそう言っている、と先月号で書いた。果たして倉本聰の言う──いや、あくまで登場人物が言ったのだが──深い感動とは何だろう?
 それはおそらく、唐突に突然、そして残酷に訪れる“死”である。
 考えてみれば倉本作品ほど、人が死ぬドラマもめずらしい。それは常にイキイキと躍動する主人公達を打ちのめし叩きのめす儀式のように容赦なく、そして残酷に訪れた。
 七〇年代、いやそれ以前から倉本ドラマは主人公の年齢がどうあれ、例えば主人公が子供であっても(『北の国から』)溌剌とした若者達であっても、(『ライスカレー』『昨日、悲別で』)青春が終わりかけた者達であっても(『前略おふくろ様』『たとえば、愛』)、すべて青春ドラマであった。そして、まるでそんな溌剌とした青春の埋め合わせをするように、多くの登場人物が実にあっけなく、簡単に死んでいった。『北の国から』では純と蛍の母親が死に、『ライスカレー』ではアキラの年老いた母がボケてライスカレーを食い続けて死に、BJは不慮の事故で死んだ。そして『前略おふくろ様』では、最終回を待たずして、おふくろ様が逝く。

“死は生の対極としてではなく、その一部として存在している”

 言うまでもなく『ノルウェイの森』の元になった村上春樹の短編『蛍』のワン・フレーズである。とはいえそうかと言って、前述の編集者が言うように作家は神の如く登場人物をあっけなく殺してしまって良いのだろうか、という問いもある。放送作家高田文夫の有名なセリフに「シリアスはいいよな新しいギャグ考えなくて済むから。殺しちゃえばいいんだもん(笑)新しい病気考えればいいんだもん」というのもある。しかし、何故この高田文夫のジョークをジョークとして笑えるのかというと、僕らが普段如何に死というものを現実から遠ざけて見て見ぬ振りをしているかという事にもなる。我々は恐ろしいから笑うのだ。僕達は実は無意識に、死が生の対極でなく、その一部である事を知っている。
 それにしても──縁起の悪い事を言うつもりはないが──倉本ドラマほど、まるで呪われたように“死”に取り憑かれた作品もめずらしいのではないか。例えば『6羽のかもめ』では加東大介が収録直後に癌で病死し、『前略おふくろ様』では、劇中のおふくろ様の死を待たずして母親役の田中絹代が死去。『北の国から』ではやはり劇中に不慮の事故で死ぬ笠松老人役の、大友柳太朗が投身自殺した。
 もちろん三十年以上の長きに渡ってTVドラマの第一線で書き続けているシナリオライターの作品なのだ。それにかかわった多くの役者が現在この世の人でないことはあたり前だ。しかしそれが“まるで呪われている”と邪推(あくまで僕の邪推に過ぎないが)してしまう程に、倉本ドラマは僕にとってリアルなのです。まるで唐突に、残酷にやって来る“死”のように──、
『たとえば、愛』の部長・中条静夫が亡くなり、『前略おふくろ様』の頭・加藤嘉が亡くなり、我らが利夫サン・川谷拓ボンまで死んでしまった。冒頭にも触れた伊丹十三は、『北の国から』純と蛍の母親の再婚相手という実に印象的な役を演じていたし、極めて個人的な事を言えば、四年前に亡くなった役者だった僕の父親は『前略おふくろ様』の第二部と『たとえば、愛』に出演していた。

(『URECCOミリオン出版刊、1997年月号不明。コラム「微熱で行こう!」より。)

【追記】そして2008年10月、倉本聰最後のTVドラマと言われる『風のガーデン』が放映される。これは中井貴一演じる麻酔医が末期の膵臓癌で死を迎える、その在宅看護と緩和医療を題材にした、まさに生と死の物語であったが、オンエアを直前に、中井の父親役・緒形拳が肝癌で急逝する。第一回冒頭には「この作品を故・緒形拳さんに捧げます」というテロップが挿入され、また最終回終了後も「緒形拳さん、ありがとうございました」というメッセージが流れた。

風のガーデン DVD-BOX

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風のガーデン

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前略おふくろ様II DVD-BOX

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フジテレビ開局50周年記念DVD ライスカレー

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